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2009年05月26日

『“秋田雨雀”紀行』を読んだ。

秋田雨雀といってもほとんど知られていないと思う。
愚かにも、高校生時代に、名前を聞いたが誰か分からなかった。
ただ、高校卒業以降は、名前だけは記憶され、時々、名前を目にしたときに、「ああここにも」とくらいは考えるようになった。
1930年代に、プロレタリア芸術運動が一定の力を持っていたときに、そこに関り、その後、その運動が、排除圧殺されるときにも、いろいろな形で支えた人物である、ということも、その過程でかすかに知った。

が、いまだに、その作品を読んだりしたことはない、はず。
戯曲も多数書いているが、上演された作品を見に行ったこともない。


細々と地方で出版を続けている津軽書房から、秋多雨雀関係の本が出ていて、機会あって、最近読んだ。

工藤正廣『“秋田雨雀”紀行 ― 1905~1908 ―』2008、津軽書房。

面白い。
そもそも工藤の文体というか、文のリズムが面白いし快適である。
工藤は、秋田と、故郷を同じくしている。二人とも黒石出身だ。
その故郷を共有するというところが、秋田の作品解釈・分析に、大変効いてきており、なるほど、と思ってしまう。とくに口語・方言・黒石語をどう見るかは、感心してしまった。

ほんとうに面白い。
出だしが、秋田とその友人の鳴海が、青森で、島崎藤村と会うシーンから始まるが、それがちょうど日露戦争のさなかであった。1904年7月26日。津軽海峡は、ロシアの艦船が通過するなど、極度の緊張下にあったようだ。
バルチック艦隊が日本海軍に敗れたいわゆる日本海海戦は、1905年の5月27日から28日にかけてだった。

『“秋田雨雀”紀行』では、雨雀の小説二編が読み込まれる。「アイヌの煙」(1907)と「おそのと貞吉」(1908)だ。
後者の「おそのと貞吉」は、なんとなくだが、夏目漱石の『坑夫』とのつながりを感じさせる。これはカンに過ぎないが(愚かにも「おそのと貞吉」を読んではない)。『坑夫』は、新潮文庫の解説では、1908年1月1日から4月6日まで『朝日新聞』に連載された。「おそのと貞吉」は、1908年6月に脱稿、『趣味』8月号に掲載、であるという。時間的にはつながりを仮設できる。長田幹彦の「澪」(1911)や「零落」(1912)も何らかの関連圏にある、と見ることはできまいか。おそらく日本資本制の展開とも関っている。

いや、しかし、この本、『“秋田雨雀”紀行』は良い本だ。

秋田雨雀をもう少し追う必要性を感じた。



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Posted by 愚華 at 12:38│Comments(0)読む
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