京つう

日記/くらし/一般  |洛中

新規登録ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、60日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by 京つう運営事務局 at

2015年04月07日

「夜カフェ」という言葉と場

ツイッターをやっているとブログが書けなくなる、ということがあるかもしれない。

とはいえ、

らくたび文庫は面白い。(残念ながらあまり売れていないような感じも)
100冊出るということも聞いたが、現在(2015年4月)まで、56冊。
別冊がいくつも出ているが。(それを入れると何冊かな)
最初に出たのは、2007年3月。

この中にカフェを扱ったものは3冊(多分)。
No.17が「京都のカフェランチ」
No.44が「京都の夜カフェ」
No.51が「京都の夜カフェごはん」。

その中で『京都の夜カフェ』に、なかなか興味深いことが書いてある。
「夜カフェ」という言葉についてだ。
「夜カフェ」が一つの単語・言葉となったのは、どうも、2008年少し前、または、2008年、らしい。
「夜カフェ」は、「某検索サイトが08年に行った新語ランキングでは86位」という。
意味は「夜に営業するカフェ」のこと。
つまり、これ以前、「カフェ」は夜は営業しない、と思われていた、ということだろう。
「ランチやティータイムに力点が置かれがち」で「夜はオマケ」だった。
それが変わったので、「夜カフェ」という言葉も台頭した、というのだ。

この指摘なかなか面白い。  

Posted by 愚華 at 14:53Comments(0)凡観

2014年06月16日

愕然

2014年に、記事を書いてないことに気付き、愕然となった。
ので、その感想を。  

Posted by 愚華 at 16:25Comments(0)凡観

2013年09月26日

竹内栖鳳展へ行きたい

10月22日から12月1日まで、京都市美術館で、「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」展が開かれる。かなり楽しみだ。

京都市美術館のHPには、「班猫」(「斑猫」が一般的)が張り付けられているが、残念ながら全期間の展示ではなく、後半(11月21日~12月2日)限定らしい。このネコ、なかなかいい。

http://www.city.kyoto.jp/bunshi/kmma/exhibition/anv80th_takeuchi.html

今回の展示だが、いま東京の東京国立近代美術館でやっている、「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」展の「巡回」展、あるいは、「共催」展である。(こういう場合の概念が判らない。)

http://seiho2013.jp/index.html

先日友人が東京での展覧会を見てきたという。
予想外に人が入っていたらしい。ただ、観客は、A.年配者が多い、B.女性が多い、C.会話を漏れ聞くと竹内栖鳳についてあまり知らない人が多い、といういうこと。
展示に関しても、A.高島屋との関係にふれているが弱い、B.同時代の西欧美術史の動きとの連動に関する解説が著しく弱い、C.京都と東京との美術的緊張関係に関する解説も著しく弱い、D.栖鳳の影響特に国画創作協会の書作家とのつながりの解説も弱い(「日稼」の主題は、微妙だが秦テルヲの娼妓などの主題と重なる可能性がないわけではないとも)、とのこと。
京都展ではどうなるのか、楽しみでもある。
(有名な「ベニスの月」であるが、どうも知られてない、ということ。また、「雪月花」となっているという点も解説が弱いらしい。会田誠の「雪月花」と対比しろとは言わないけど…、とも)

竹内栖鳳の日本美術史上の位置づけはどうなの、その評価の揺れや変容はないの、というのは興味がある。また、世界美術史上どう位置づくの、というのも興味がある。  

Posted by 愚華 at 15:21Comments(0)凡観

2013年05月03日

『気になる京都』

面白い本を見つけた。

大貫まひろ『気になる京都 あの店・あの場所』(風の駅、2012)。

「風の駅」は、出町商店街にある、カフェ+図書サロンらしい。
まだ訪れてはいない。
勝手な想像だが、70年代後半的、かな。
この本が、そうした風に感じさせる。

付属の地図は、大変便利。
ただ、残念なのは、蕎麦屋があまり記載されていないこと。
著者の志向は、蕎麦にはないのかもしれない。  

Posted by 愚華 at 14:45Comments(0)凡観

2012年03月18日

京都文学散歩で愚考した

大阪に保育社という出版社があった。
かつてカラーブックスを出していた。
一つのテーマについて、カラー写真と文章で構成するものだ。

先日、恵文社一乗寺店でその内の『京都文学散歩』というのを見つけた。
著者は、駒敏郎。
このシリーズでは、94番目のカラーブックス。
出版は、1966年2月。

近代文学と京都の交差を扱っている。

扱われた作品は36編。


発表年の早い順に5編ほどリストアップすると…
(ただしあくまでも『京都文学散歩』の記載に従ってだが…)

夏目漱石『虞美人草』(1907)
高浜虚子『俳諧師』(1908)
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』(1914)
森鷗外『高瀬舟』(1916)
加能作次郎『世の中へ』(1918)

…となっている。

加能作次郎の『世の中へ』がどういうものか、これだけ分からない。

高浜虚子の場合、『風流懺法』も載っているが、1921年出版となっている。
ただ、『風流懺法』中の三篇、「風流懺法」「続風流懺法」「風流懺法後日譚」は、
どれも雑誌『ホトトギス』に最初は掲載された。
「風流懺法」は、1907年4月。「続風流懺法」は1908年5月。
「風流懺法後日譚」は、1919年1月から1920年6月まで。

また、『俳諧師』は、1908年2月から9月まで「国民新聞」に連載された。

さらに、『虞美人草』は、1907年6月23日から10月29日まで『朝日新聞』への連載。


近代文学では、1907年から1908年にかけて、京都がなぜか主題化されている。
『ホトトギス』派によっているのも何かありそうだ。


不思議なことに、『京都文学散歩』では、長田幹彦の名前は出てくるが、
作品はとりあげていない。
1966年には、すでに過去の人、消え去った文学だったのだろう。  


Posted by 愚華 at 19:01Comments(0)凡観

2011年11月15日

芥川の書簡と京都

芥川龍之介から高浜虚子へ宛てた今まで知られていなかった書簡が見つかったらしい。

新聞で報道されている。

ネットで見てみると、「産経ニュース・ウエスト」のものが詳しかった。

1919年6月27日付の書簡。

内容的には、京都と二重に関係している。
一つは、京都で知人と会ったことが、冒頭に来ている。
この知人は誰か書いてはいない。恒藤恭だろうか。

その知人と虚子の小説「風流懺法」の話をしたとあるようだ。
登場人物のモデルが話題になったそうである。
「風流懺法」は、1907年4月に『ホトトギス』に発表された。
主人公の一人は比叡山の小僧の一念。
もう一人が祇園の舞妓の三千歳である。
おそらくこの二人のうちどちらかあるいは二人ともが話題になったのだろう。

芥川の俳句が、この手紙のメインであるが、
愚かにも冒頭での京都とのつながりが特に興味深かった。


芥川や、たぶん恒藤などに、小説「風流懺法」は、かなり影響を与えたのだろう。
そこも面白い。  


Posted by 愚華 at 13:58Comments(0)凡観

2011年10月27日

スタバ京都1号店

京都のスタバの1号店はどこなのだろうか。

マクドの京都1号店が気になったついでに、これも気になっていた。

スターバックスファンのサイト「Starbucks Links」には、
「スターバックスの歴史・沿革」というページがあり、
そこに京都1号店についての情報がある。
http://www.geocities.jp/starbuckslinks/company/history.htm

1999年6月18日に
「京都県1号店・京都四条通ヤサカビル店オープン」
とのこと。
「京都県」はなかなかのものだ。「大阪都」とタイを張りそう。

おそらくスタバファンと思われる人のブログ
「帰ってきたスタバ番長」でも
「「京都1号店」の「京都四条通ヤサカビル店」」
とある。

スタバの公式の記録とか、新聞記事が欲しいところだ。

残念ながらスターバックスのHPの「沿革」には情報がない。
ただそこで分かったのは、関西への進出は大阪がまず第一。
1998年11月にオープンした「梅田HEP FIVE店」である、という。  


Posted by 愚華 at 14:25Comments(0)凡観

2011年08月11日

銭湯奇人

銭湯では、オヤッと思う奇妙な人と遭遇する場合がある。


いまはもうない京都の初音湯でのこと。

前にも書いているが、ここは、まず水が非常にいい。
湯船からあふれるお湯。
地下深くからくみ上げられた水による水風呂。
加えて、サウナも熱い。

新しく作られたらしいサウナの床や座るベンチは、木の香りがする木製のもの。
銀閣寺近くにあった銀寿司で、初めて冷の菊正宗を、
新しい一合升で飲んだ記憶がよみがえる。


ある時、そのサウナの扉を開けてややギョッとした。
サウナを、男が走っているのである。
扉側に背中を向け、裸でランニングしていた。
もちろん、京都の銭湯に付属しているサウナは狭い。
そこでは「走る」という概念はほとんど生じる余地がない。
初音湯の場合、サウナ室の両側に、ベンチ状に続く座る部分の間に、
およそ1メートル幅の通路がある。
ベンチ両側に向かい合って人が座ると、通るのに神経を使うくらいだ。
長さはおよそ4メートル。
つまりベンチもこの長さ。一列に座ると最大5人くらいだった。



この「通路」をその男が走っているのだから驚く。
もちろん「シャドウランニング」だが。

男も驚いたらしく、すぐにベンチに上がり、屈伸柔軟運動に切り替えた。
一人で3人分のベンチを占有して。
そして、私がサウナにいる間はずっとその運動で汗を流していた。

その日は、私とサウナランナーを含めて3、4人しか客がいなかった。
そんなこともあって、その男はサウナランナーと化したのだろう。
以前、もう少し混んでいた時も、メインの浴場で、
体操・運動じみた動きをその男が見せていたのを思い出した。


銭湯を出て、つれに女湯でそうした客がいるかを聞いたが、
一度も出会ったはいないという。
かなりレアケースである。

その後何回かランナーを見たが、ランニングしているのにはいきあたらないうちに、
初音湯は閉湯。
いま彼はどこの銭湯で走っているのだろうか。
快適に「シャドウランニング」できるサウナを発見できているだろうか。  続きを読む

Posted by 愚華 at 15:18Comments(0)凡観

2011年07月25日

ルシアン・フロイトと猫

オンラインのニュースなどで報じられているが、ルシアン・フロイトが7月20日に死亡した。

ルシアン・フロイトは、1922年ベルリンで生まれている。
1933年にはロンドンへ。

ナチスが政権をとり、ユダヤ人排除政策が明確になっていったからであろう。
ナチスがドイツ議会で第一党になったのは、1932年の7月である。
1933年1月にはヒトラーがドイツの首相に就任した。
3月には共産党が非合法化され、7月のナチスによる独裁が成立、10月には国際連盟を脱退した。
どの段階でロンドンへ逃げたのだろうか?

1938年3月には、ナチスドイツはオーストリアに侵攻し、すぐに併合した。
ルシアンの祖父である、ジークムント・フロイトは、そのため、
パリを経て、ロンドンへ亡命した。(6月のこと)
ルシアンの家族が居たということもロンドンを選んだ理由かもしれない。

ジークムント・フロイトが亡くなるのは1939年9月。
第二次世界大戦勃発直後である。


ルシアン・フロイトのかなり大規模な展覧会は、2002年6月から8月まで
テイトブリテンで開かれた。(Lucian Freud at Tate Britain)
たまたま、ロンドンで観たが、愚かにもその時までルシアンのことを知らなかったし、
ジークムント・フロイトの孫とも気づかなかった。
しかし、展覧会には圧倒された。
特に今世紀に入ってからの「肉塊」を描いた巨大な絵は観る者に迫ってくる。
その迫力たるや、本当にすごい。
その展覧会の記録などはいかにある。

http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20080615134822/http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/freud/

その時はみて居ないと思うが、1947年に「子猫と少女」という絵を描いている。
その一部。




フランシス・ベーコンとは友人関係。
ベーコンのものは、パリで見て変、と思い、はじめ好きではなかったが、
彼の肖像画展を見て考えががらりと変わった。


ベーコンとフロイトがどう位置づけられるのか、興味がある。  続きを読む


Posted by 愚華 at 17:36Comments(0)凡観

2011年02月25日

吉井勇と輪廻する『乙女』

吉井勇と映画が気になり、黒沢明の『生きる』の「ゴンドラの唄」の作詞者というところから、吉井と映画を結びつけて見たが、吉井と「ゴンドラの唄」の事情については、すごく面白い学術論文があった。

相沢直樹「『ゴンドラの唄』考」である。(浦沢直樹ではない。)
『山形大学紀要(人文科学)』の第16巻3号(2008)に載っている。

こちらの興味でいろいろ情報をそこからピックアップしておこう。

その1
「ゴンドラの唄」が日本で初めて公表、というか、舞台で歌われたのは、1915年であった。おそらく4月26日。
「ゴンドラの唄」が歌われる演劇『その前夜』は、4月26日から30日まで、帝国劇縦横で上演された。その時が初演らしい。劇団は芸術座。主演女優が松井須磨子で、島村抱月が中軸になっていた、といっておいていいだろう。

その2
「ゴンドラの唄」(1915)と森鴎外の翻訳『即興詩人』(1902)の関係が明らかになった。
相沢によれば、どうもこの関係を証言した吉井勇のエッセイが忘れられ、そのため、典拠が不透明のまま、多くの人が、「関係がある、関係がある」、と言っていたらしい。
こういうことはよくある。
この場合、典拠なしにエッセイなどに書いていた典型は、森まゆみのようだ。
相沢は、1916年に発表された、吉井勇の「松井須磨子に送る手紙」という文章の中で、吉井自身が、「ゴンドラの唄」は、『即興詩人』の「妄想」という章に出て来るヴェネチアの「俚謠」を発想のもとにしていると証言している、ということを示した。
このテキストの再発掘は凄い、と思う。

その3
これは塩野七生の仮設とつなげた図式だが、まずメディチ家の黄金時代に、その当主だったロレンツォ・イル・マニフィコが謝肉祭のために『バッカスの歌』という詩を書いたという。
これはその後も謝肉祭に欠かせない歌として歌い継がれた、らしい。
ところでアンデルセンの『即興詩人』は、彼の自伝的物語という。彼のヴェネチアでの滞在の体験が使われている可能性が高いらしい。アンデルセンは、『バッカスの歌』を耳にして、それを『即興詩人』にヴェネチアの「俚謠」として組み入れた、かもしれない。
このヴェネチアの「俚謠」を、森鴎外が日本語に翻訳。それを発想源として「ゴンドラの唄」が吉井勇によって作られる。
その時の一節「命短し恋せよ乙女」という部分が『セーラームーン』の主人公の決め台詞になる。
で、(ここからは妄想であるが…)セーラームーンのコスプレをしたイタリア娘が、その台詞をヴェネチアで語り見得を切る、ということなんかがあったりして…。

ここまで来ると吉井勇もクールジャパンの主要起点ということになろうか。

ともかく、相沢のこの論文、面白い。
学術論文をバカにしていたけど、そうでないことも、奇跡的にあるということも分った。  


Posted by 愚華 at 21:06Comments(0)凡観

2011年02月10日

特別展示「広告王 森下博」

大阪企業家ミュージアム、というのがある。
大阪商工会議所が運営しているらしい。
中央区本町・大阪産業創造館地下1F、に所在。



ここで今、特別展示「広告王 森下博 ~森下仁丹 創業者~」が開催されている。

仁丹街看板・街案内について何か面白いことでも知ることが出来るか、と思い行ってみた。

結論から言うと、新事実はない。
1910年から「大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた」という公式見解だけだった。
ただ、宣伝に使われた、看板やポスターの実物が多数あったのには見いってしまった。


↑「大阪企業家ミュージアムブログ」より引用。
(今回の展示写真禁止らしい。そこまでする必要はないだろう、と思うが。ということで木製毒滅は「引用」させてもらった。)  

Posted by 愚華 at 16:06Comments(6)凡観

2011年01月17日

深泥ヶ池は今日は雪だった

深泥ヶ池は今日は雪だった。



雪の京都は観光資源になりそう。
ただ天候に左右されるので、偶然まかせになるのが厳しい。
雪の天気予報になった時に、急きょツアーが立ちがる、というやり方は難しいものか?  

Posted by 愚華 at 12:15Comments(0)凡観

2010年12月28日

少女と映画と吉井勇

ふと気になったのは、吉井勇と映画の関係である。

黒澤明の「生きる」で、主人公の渡辺が歌うのが「ゴンドラの唄」。
大変印象深いが、作詞は吉井勇である。作曲が中山晋平。
ネットなどの情報でまとめると、1915年に作詞作曲された。
芸術座が上演した新劇の劇中歌だった。

生きる」は黒沢明監督の代表作。
1952年の東宝作品。
渡辺を演じたのは、志村喬。
渡辺は、退職前の役所の課長である。
映画の中では、53歳と想定された。

1952年に、53歳。
とすれば、渡辺は、1899年生まれだろう。
渡辺は、1915年には、16歳。
「ゴンドラの唄」が日本社会ではやったとき、もしかすると学生だったわけだ。
フィクションではあるが。
(黒澤のこのあたりの作りこみは非常にうまい。)

「ゴンドラの唄」の初めての流行と、
生きる」での効果的な使用との間には、
37年の年月がある。
そして、その年月の歴史を、渡辺は生きたということだろう。

黒澤は、1910生まれだから、この歌の最初の流行を知っているのかもしれない。
黒澤関連資料を紐解けば、そのあたりの情報があるだろうが今のところそれをする余裕はない。

1915年の吉井勇は、まだ、放蕩のさなかであると思う。
赤木桁平(=池崎忠孝)が「『放蕩文学』の撲滅」を書いて、
吉井勇を含めた近松秋江、長田幹彦、久保田万太郎、後藤末雄を「批判」するのが、翌年の1916年である。
この「ゴンドラの唄」にも、「放蕩」とのつながりはあるであろう。
ただ37年の社会の変容で、意味が変化したと考えることが出来る。

吉井は、20年代に、映画の原作を提供している。
それは忘れ去られたが、「生きる」によって、再び映画とつながったわけだ。  続きを読む


Posted by 愚華 at 19:22Comments(0)凡観

2010年12月21日

『澪』と多佳女と幹彦

長田幹彦の古本をネットで見ていたら、かなり面白い情報に出会った。
といっても、多くの人にとって面白いわけではなく、極極極一部の人にとってだけ興味深いという代物である。


長田幹彦のはじめての小説集は、1912年に出版されたはずだ。
』である。「ミオ」と読むようだ。


調べてみると、意外なことに国立国会図書館には入っていない。
Webcatで見るとさすがに所蔵図書館はあるが少ない。
神戸市立図書館、鶴見大学図書館、明治大学図書館、そして、日本近代文学館だ。
Webcatの詳細画面によると、「澪」「零落」「寂しき日」「母の手」の四編が納められ、351頁。
籾山書店から、1912年8月に出版されている。
その籾山書店からは、前年の12月に『刺青』も出ている。
『刺青』の出現と『』の登場に間に、長田幹彦の京都・関西滞在、
さらに、谷崎潤一郎の
「京阪流連時代」がある。
谷崎は、『』の登場直前に、東京に帰ったが、
長田は、その後も京都・関西にいたはずだ。



さて、ネットの古本に戻る。
この『』が売られている。
このことはそれほど驚くべきことではない。
が、コメントとして

「磯田多佳宛ペン書献呈署名入」

と記されている。
実物を見ていないから何とも言えないが、長田幹彦が、
祇園大友の「女将」磯田多佳へ送った本、ということか。


磯田多佳に関しては、直ぐアクセスできそうなものとして、
次の二つの文献がある。

谷崎潤一郎「磯田多佳女のこと」(1946)
杉田博明『祗園の女 文芸芸者磯田多佳』(1991→文庫2001)

杉田の本には、後年、長田が磯田をどうとらえたかなどが引用されているが、
残念ながら、いろいろ問題があり、信頼性は低い。
結局自分で確かめないといけない、煩わしいが…。

ともかく、長田は、もしかすると、この本を持って大友を訪れたのかもしれない。
磯田は、この本を読んだのかもしれない。何か彼女の書き込みでもあれば面白い。


そして、誰かが古本市場へと流したわけだ。


現在の所蔵は、「永楽屋」。
愛知県の古書店だ。
価格は、「75,000円」。
公共の図書館が購入すれば、見ることも可能になる。  


Posted by 愚華 at 17:36Comments(0)凡観

2010年10月13日

京都本人気

今日の『京都新聞』朝刊に載っていた「京都本、人気なぜ」という記事が意外に面白かった。
「京都本」というのが書籍でも、雑誌特集でもそれなりに売れるらしい。
考えて見ると、京都に住みながら、京都の情報を得るために、雑誌の京都特集を買うことがある。
特に新規に出来た「お店」情報をそこから手に入れようという目的が主である、と思う。

その記事でマガジンハウスによる売上についての話が出ていた。
マガジンハウスによれば、京都特集などは、30%くらいが地元京都で売れるらしい。
これはすごい。
ただ他の比較が無いので、ほんとにすごいのかどうかは分からない。
博多特集が、福岡市でどれだけシェアがあるのか。
名古屋特集は、東京特集は、と疑問が広がる。
マガジンハウスによれば、京都でそれが売れると、全国でも売れると言う。
これも比較があったら、もっと説得性もあり、興味深いものになったのに。
やや残念。


『昭和の京都』(光村推古書院)が9000部売れたとも記事に出ていた。
たしかに、かなり面白い写真集だ。  

Posted by 愚華 at 16:47Comments(0)凡観

2010年08月12日

新しく、かつ、旧くもあり…

昨日の京都新聞夕刊で、「仁丹マーク」の街案内(町名看板)を新設するという記事があった。
森下仁丹のHPを見たところ、「看板設置住居」と「看板の書き手」を募集していることが分かる。
以下のような「告示」がHPには載っている。



「大礼服を着たひげの紳士と「仁丹」の文字が書かれた町名看板。
この表示板は、森下仁丹が1910年から京都、大阪、名古屋、東京など全国の都市に設置を始めました。
多くの町名看板が戦災で失われましたが、京都には100年を経た今でも約800枚が残っており、レトロな書体が古い町家の風景になじんでいます。
しかし社会情勢や生活様式の変化によりこの看板が減少し、昔から愛着を持っている方から保存を訴える声が多く寄せられています。

そこで森下仁丹株式会社は、歴史ある京都の街並み保全と、「京都らしい」町名表示への取り組みとして、現在失われつつある琺瑯町名看板の再掲出を企画いたします。
つきましては、京都市内で、琺瑯町名看板の設置を希望する住居と、自分の文字を看板に残す、琺瑯町名看板の書き手を募集します。

ふるってご応募いただけますようお待ちしております。」

http://www.jintan.co.jp/ir2/001/10kyoto_horo_boshu/

設置枚数は25枚だそうだ。
これまでなかった地域や、新しい「区」などを重点的に対象として欲しい。
設置した際は、設置場所の地図とかも欲しいところだ。

この件、すでに「京都ずんずん」さんも報告している。
重なってすみません。  

Posted by 愚華 at 12:36Comments(0)凡観

2010年06月06日

悲しき書の面影

渡辺京二の作品は、なかなか優れていると思っていた。『逝きし世の面影』は、ほんとうに名作である(と思った)。さまざまな資料を読み込み、近代以前の日本のあり方を再構築しようとしている。その視線も、近代以前に、良きものが存在しており、その良きものを暴力的に根絶やす近代への根源的批判といった感じで、熱いものを感じた。

5月28日の『京都新聞』「私論公論」に渡辺京二は「挫折者包む歴史観必要」というエッセイを書いている。最後の二段落目以降、おやっ、となった。

その部分を盗用しておこう。

「私は最近『安吾捕物帖』の中に、彰義隊崩れを扱った一編があることを発見して、深い印象を受けた。」(中略)
「彰義隊崩れと呼ばれた反革命の旗本御家人も、維新革命のある側面の当事者ではなかったのか。長谷川伸はさすがに、維新が生んだ青年のニヒルを、とっくに小説化している。」

これは、『安吾捕物帖』の作者は、長谷川伸、という論理で書かれているように、読める。
『安吾捕物帖』は坂口安吾作ではなかったか。もちろん長谷川伸が書いているかもしれない。資料を広く探る渡辺京二のことであるから、そういう「発見」もあったのかもしれないが、だとすると、説明が必要だ。

推測だが、渡辺は何か書き違いをしたのだろう。書いたあとに原稿を確かめなかったのだろう。校正も行くはずだ。そのときも見落としたのだろうか。

悲しむべき事柄と思われる。
教訓は、『逝きし世の面影』における資料の扱い方も、読む側で十分批判的に吟味しなければならない、ということだ。  

Posted by 愚華 at 15:34Comments(0)凡観

2010年05月01日

「グラスゴー・ボーイズ」の展覧会

グラスゴーの知人から連絡があり、「グラスゴー・ボーイズ」の展覧会が開催されているという。

ネットで調べてみると、KELVINGROVE ART GALLERY AND MUSEUMで開かれている。開催期間は、ホームページによれば、4月9日から、9月27日まで。
グラスゴーでの展示は、その後、the Royal Academy of Arts in Londonへも行くらしい。グラスゴーでも見てロンドンでも見る、というのが一番いいのだが、悲しいことに、金と暇がない。

日本では無名なので、やってくることはない感じがするが…。
  

Posted by 愚華 at 10:21Comments(0)凡観

2010年02月19日

阪急とビブレ

阪急とビブレが今年で京都から消える。
資本制社会では当然の出来事だが…。

関連して…。↓

今日の京都新聞の「私論公論」の「百貨店・大型店の苦況」(三浦一郎)は興味深かった。
特にすごい意見が書かれているわけではないし、提言も一般的である。
ただ、阪急百貨店とビブレを短くまとめている所が、ああそうだった、
という感覚をもたらし、凝集された情報でここ40年が濃縮されている。

「買物の楽しみの低下」、ということ、と分析。
確かに、行きたい、という吸引力が無いのかも知れない。  

Posted by 愚華 at 09:10Comments(0)凡観

2010年01月30日

再びサリンジャー

サリンジャーが死んだことで、皮肉にも、サリンジャー情報が出てきている。
死さえも隠しさる、ということはできなかったようだ。
サリンジャー(1919-?)という表記が似合った気がするが、
サリンジャー(1919-2010)となった。

毎日新聞のNYからの情報(ネット)で、いろいろなことがわかった。
http://mainichi.jp/select/today/news/20100129k0000e030003000c.html?link_id=RTD04
まず住所。「ニューハンプシャー州コーニッシュ」
そこに住んでいたという。

自出。「ポーランド系ユダヤ人とアイルランド系の両親のもと、1919年、ニューヨーク・マンハッタンに生まれた」
1929年の大恐慌のとき、10歳。
青年期は経済不況の中にいたことになる。

デビュー。「40年、ストーリー誌に掲載された「若者たち」でデビュー」
21歳のとき。

戦争。「42年に米軍に入隊し、ノルマンディー上陸作戦(44年)にも参加」
ヨーロッパ戦線で戦ったわけだ。
ナチスドイツに関してどう考えたのか。

ライ麦畑でつかまえて」は1951年の作品。
1950年の2月にマッカーシー旋風でアメリカは集団狂気になっていた。
同年6月25日、朝鮮戦争が始まっていた。
同年10月30日、当時のトルーマン大統領が、朝鮮戦争で原爆を使うこともある、と表明している。
1952年4月には、対日講和条約が発効し、米軍による日本占領は終結した。

こうした時代のなかの小説である。

最後の発表された作品は、1965年の「ハプワース16、1924」という。
1962年8月5日、マリリン=モンローが自死。
ケネディ暗殺が、1963年11月22日。
アメリカによるいわゆる北爆開始が、1965年2月7日。

係累。「マット・サリンジャー」「長男で俳優」
娘もいると別の新聞記事にあった。

作品。発表はしていないが、書いてはいるとも言われている。
もしそれがあると、また話題となるだろう。  

Posted by 愚華 at 12:09Comments(0)凡観