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2013年01月23日

大島渚「青春の深き淵より」

大島渚は、1960年に芸術祭賞をもらっている。

ただ、映画部門ではない。テレビ部門である。

関西テレビで放映されたテレビドラマ「青春の深き淵より」が対象作品。
残念ながら未見。

朝日新聞の1960年12月21日づけ朝刊には、芸術祭賞の報道の中に、
この「青春の深き淵より」を紹介するテキストがある。

「就職という社会的関心の強い問題を背景に、緊張にみちた新鮮な対話劇を展開、特に青年層の生き方について多大な感銘と説得力を生み出した」

現在の就活状況に投げ込むとどのような反応が生れるのか、少し興味がわく。
  


Posted by 愚華 at 13:27Comments(0)温故

2012年10月30日

バルビル・キョウト

京都のバルビルが建て替えられるといううわさが流れているが本当だろうか。

このバルビル、意外なことにあまり歴史が語られていない。
現在のHPは実にシンプルで、京都バル、神戸バル、神戸バル・アネックスの
三つのファッション関連施設の案内を中心に構成されているに過ぎない。
なぜか、その歴史はない。

調べてみると、京都バルは、オープンが1970年11月21日。
「江戸から京へ、ファッション遷都」というコピーで売り出したらしい。
三島由紀夫が割腹自殺する(70年11月25日)直前のことである。  


Posted by 愚華 at 18:01Comments(0)温故

2012年06月29日

京都市電100年記念

「京都市公営交通100周年記念シリーズ」のトラフィカカードを二種類ゲット。

  

Posted by 愚華 at 13:35Comments(0)温故

2011年02月20日

「小林かいち」を送りだした「さくら井屋」の閉店

久しぶりに三条通りから新京極に入った。
驚いたのは、「さくら井屋」が閉店していたこと。





ここ数年、さくら井屋がかつて売り出していた「小林かいち」の封筒などがブームになっていたので、人気上昇中かと思いきや、そうではなかった。
昨秋に、店に入ったが、なんかいまいちの品ぞろえだなあ、と思ってしまったが、まさか店を閉めるとは。
その時「「小林かいち」ありますか」、と聞けばよかった。
が、なんとなくそれが憚られる雰囲気も…。

ヤフオクではかなりの人気の「小林かいち」なのに、それを売り出したお店は退出とは。
創業は「天保年間」という。(1830~1843)

閉店は2011年1月15日。もうすこしで200年だった。  

Posted by 愚華 at 16:44Comments(0)温故

2011年01月24日

一軒に三枚

一つの建造物(町屋系)に、三つの仁丹街看板。
中立売通黒門角の町屋。

「黒門通中立売下ル 役人町」①



「中立売通黒門東入ル 役人町」②



「黒門通中立売下ル 榎町」③



①と②は建物の南西角に近接して貼られている。


③は建物の南端近くにある。

使われている漢字が似通っているのも、当然ではあるが、面白い。
形式は同じに見える。同時期に配布されたものであろう。  

Posted by 愚華 at 12:26Comments(2)温故

2010年12月30日

コンドルは飛んでいった

かつて、四条木屋町付近に、インカ料理の店があった。
一回は、いったことがあるはずだが、そのときの自分の経済状態からすると値段が高く、
マスターもこちらの風体などからあまり暖かくなく、
その後、前を通るだけになっていた。

実は味もあまり印象に残っていない。
一緒に行った人間については覚えているが…。

どうなっているか、と思って、現地には行かずに(めんどくさくて)
ネットで調べると(こうなるから頭も体も腐るのだと知りつつしてしまう)
2005年7月にマスター≒オーナーがなくなり閉店したという。
この情報は、「世界の料理 総合情報サイト」である「e-food.jp」内におかれたテキストによる。
2005年6月27日に書かれ、その後情報を更新している
「京都 各国料理レストラン・リスト」からいただいた。
http://e-food.jp/blog/archives/2005/06/post_28.html

ところで、このインカ料理店、森繁は、
岩城もと子『京の味どころ 美味百選』(保育社、1985)に紹介されていた。
今から25年前のことだ。

「日本唯一のインカ料理店で、オーナーは包丁一本で南米のペルー、ボリビアと三年の修業をつんだ後、現在の場所で開業して28年。客層のほとんどが観光客で、和食の店が多い木屋町筋での異色の店となっている。
 インカ帝国初代王の名前からとったカパック・インカシチューは、細かくしたエビを揚げてしょう油ベースの独特のタレで食べる料理、肉をポテトではさみ揚げした一品と、バナナ、リンゴのフライがつく。シチューは野菜、果物を一週間もかけて煮こんだもので、ピリリと辛くしまった味。この料理には、コーラの実をしぼった天然エキスからつくった天然コーラが、ぴったり合う。この天然コーラは普通のコーラより高いが、この店でしか手に入らない。
 オーナーのおすすめ料理はコンドルで、鳥料理であるが、冬は煮こみ、夏は揚げものになり、これにインカシチューがつく。このほか貝柱、サラダ、生ハムにシチューつきのコンチータなどもあるが、メニューを見ただけでは、内容の見当もつかないおもしろい味がある。」

「京都 各国料理レストラン・リスト」のレポートも引用させてもらおう。
2005年6月執筆で、7月に閉店であるから、ほぼ最後の紹介レポートということになろうか。

「スペイン人が侵略する以前のインカ(現ペルー)の料理を提供する、1957年創業の老舗有名店。"インカ料理"と銘打ったレストランは、日本でこちらだけです。

メニューは、3日間煮込むという、とうもろこしの入ったちょっとスパイシーな"インカ・シチュー"(メインメニューについてくる)をはじめ、バナナやりんごを揚げた"カパック"、"コンドル"(巨大なチキンのフライ。コンドルの肉っぽい外観)、"コンチータ"(貝料理)、"チチャロン"(ゆでた黒豚)など(価格はセットで各2800円前後)。ランチには、"インカカレー"というメニューも。

インカ帝国に思いをはせながら、夢をいただくという感じでしょうか。メニューには、現在はペルー料理として知られるものも含まれていますが、最近、神奈川の工場地帯あたりに増えた、日系人向けのペルー料理レストランとは一線を画しています。自社でビン詰め製造しているという、天然コーラ(=インカコーラ。1杯400円)には感動しました。

地元の人よりも、旅行者のお客さんが多いそうですが、50年近くも前にこんなお店ができて、今も続いているなんて、京都の文化度が計り知れるようですね。」

あと少しで半世紀というときになくなったので、オーナーも心残りだったのでは、と思う。
とはいえ、京都の食空間文化史を考えたりするとき、かなり興味深いところに位置する店だ。  

Posted by 愚華 at 15:56Comments(0)温故

2010年11月25日

吉田初三郎の京都

用事があって大阪に行った。京阪を使い「なにわ橋駅」で降りた。
西口から出ようと地下を歩いていると「アートエリアB1」というスペースに行き当った。
なんと「鉄道芸術祭vol.0」というのをやっていた。

見学者は零。
展示もやや寂しいが、無料であるからしかたあるまい。
ただ、吉田初三郎の鉄道沿線鳥瞰図が三つ拡大展示されていた。
これは面白い。

展示されていたのは、『京阪電車御案内』(1913)、『比叡山』(1926)、『京津電車御案内』(1915)。
ちなみに、『京阪電車御案内』(1913)が、吉田初三郎の鳥瞰図のデビュー作らしい。

やや不鮮明だが写真を撮った。(撮影は許可されている)



これは、『比叡山』(1926)からのもの。
出町柳付近が非常に面白い。「今出川」の橋はない。
植物園が、郊外にある。高野川沿いの「京絡園」というのにも興味がひかれる。



これも同じく、『比叡山』(1926)から。
茶山園とは何か。

残念ながら会場には複製などを販売してはいなかった。
ほしいのにな。

  続きを読む

Posted by 愚華 at 17:59Comments(4)温故

2010年11月01日

飲み屋、「夢二」

夢二」という居酒屋が、京都の浄土寺あたりにあったと記憶している。
白川通りよりも西、もちろん今出川よりも南、吉田山より東であった。

何回利用したかわからない。10回には満たないと思う。
誰の紹介でそうしたところに顔を出せたのかも定かでない。
記憶では、入ると座敷があり、せいぜい20名でいっぱいだったのではないか。
ただあいまいである。

強く記憶に残っているのは、竹久夢二の作品が多数かけられていたということ。
本物であるのか、とか、由来はどうしてか、など、その時は特に気にならなかった。

今思うと、夢二が京都に住んでいた、夢二が京都をたびたび訪れた、ということ、
そのことと関係があったのかもしれないと思う。
しかし、何せ、飲み騒ぐことにしか気が回らなかったので、
確かめるということはしなかった。

最近、「夢二」に触れているある文章にインターネット上で出会った。
藤本建夫が書いた、「京都時代の野田君」というものである。
「野田君」とは、野田敬一のことらしく、2005年に、急逝したとのこと。
二人とも経済史研究者であるらしい。
藤本は野田の友人で、追悼文を書いたのが、この「京都時代の野田君」である。

この中に、「夢二」が出てくる。そこを引用しておこう。

「僕たち(野田や藤本などの仲間である:引用者)は息抜きに時々飲みに行った。
当時は苦しい生活であったから京大周辺の安い居酒屋に決まっていたが、今でも
思い出すのは「夢二」である。「夢二」は大野ゼミの大先輩川本和良立命館教授に
僕が連れて行ってもらって知ったのだが、10人前後入れば満員になるほどで、
竹久夢二の絵と、それにそこの年老いたおかみさんは河上肇のお手伝いさんを
していたことがあるとのことで、それを偲ばせる河上肇の直筆の小さな色紙とが
壁に掛っていた。ここは今時の居酒屋チェーン店のがさつさは無論なく、それでいて
そこでの話題には僕たちを惹きつける賑わいがあった。僕たちも何か熱っぽく
飽きることなくしゃべっていたことは覚えているが、今となっては記憶のかなたに
すべて消え去ってしまった。記憶力に良い君は話題を何か覚えていたかもしれない
けれど、今となっては天国の君に問い合わせるすべもない。あの「夢二」は
今どうなっているだろうか。」


「夢二」のおかみさんが、「河上肇のお手伝いさん」だったこと、
「河上肇の直筆の小さな色紙」がかかっていたことは知らなかった。
忘れ去ったのかもしれない。
「夢二」がいつ閉店になったのかもわからない。

「夢二」では酢ガキを食べた。
おいしかった。
ある時友人と5人ほどで行き、酢ガキを何回も注文した。
翌日牡蠣にあたっていた。
数日後一緒に行った友人たちに聞くと彼らも同じだった。
でも、酢ガキを嫌いになることも「夢二」に行かなくなることもなかった。
おそらくこういう店は、また京都に誕生しているのではあろう。
そういう飲み屋の移り変わりを知りたい、とも、思う。  
タグ :竹久夢二


Posted by 愚華 at 15:01Comments(0)温故

2010年10月22日

上長者から南下丸太町まで

上長者から、黒門通りを南へ、丸太町まで。

一つだけ、西に入ったところにあったが、仁丹街案内は4つあった。

それ以外が3つ。ヘルスセンターの広告など。
琺瑯ではないだろう。

たぶん見落としもあると思うが…。



もっとも北にあった。↑










これは黒門通りに沿っているところではなく、やや西に。↑





  

Posted by 愚華 at 13:16Comments(0)温故

2010年09月29日

吉井勇はどこでいつ歌ったか

紙版京都新聞は見ていないが、ネット版京都新聞(2010年9月29日)によると、
吉井勇の有名な短歌

かにかくに祗園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる

の歌われた時と場所が特定されたという。
1910年5月14日。
「新町通上立売上ルのドイツ文学者茅野蕭々宅での沛蕃社談話会」で。

同志社大学新町校舎近くか。

初出は『京都日出新聞』。


ということは、吉井勇のエッセイ「祗園冊子」にかかれていることは、
かなり割引して考えないということであろう。

なるほど。
新聞資料を直接調べなくちゃ。


記事は以下にある↓
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20100929000080  
タグ :吉井勇


Posted by 愚華 at 22:39Comments(0)温故

2010年01月29日

つかまえて

今日のニュースを聞いていてサリンジャーの訃報に接した。

「ライ麦畑でつかまえて」はいつ読んだのだろう。
再読しようと思いつつまだ果たせないでいる。

おそらく、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読んで、サリンジャーにつながったのではないか。
「ライ麦畑でつかまえて」は文庫本がなかったが、ほかのものはあった記憶がある。

「バナナフィッシュ日和」という短編があるはず。1948年のものらしい。

これは吉田秋生の「BANANA FISH」と関係する。
こちらのマンガは、1973年の南ベトナムからはじまる。
サイゴン陥落の1年10ヶ月前。
そして、いっきに1985年3月4日のNYに話は飛ぶ。

主人公アッシュがカッコいい。

第一巻で、中絶専門のドクターにアッシュが
「バナナフィッシュ」と口走る精神異常の兄貴をみてもらう。
その時ドクターがサリンジャーの話をする。
アッシュはその小説を知らない。
(マンガ自体の連載は、85年から「別冊少女コミック」5月号から)

サリンジャーというと庄司薫と吉田秋生とつながり、
村上春樹とは結びつかない。
春樹の新訳でも読んでみるか、という気になった。  続きを読む

Posted by 愚華 at 13:57Comments(0)温故

2010年01月20日

アングラ期の夕暮れ

浅川マキが死んだ。
60年代後半から70年代の文化も、もはや終末にきていることの兆しだろうか。
歴史化してきている。

浅川マキといえば西部講堂。
ライブが何回もあり、幾度かは聞きに行った記憶がある。
雨のはげしい夜で、西部講堂は一部で雨漏りがあった。
ドラムは確かつのだひろ。
ステージはアングラという形容もいける感じだった。

浅川マキといえば寺山修司。
「書を捨てよ町に出よう」に出演していなかったか。

浅川マキといえばかもめ。
神戸か横浜の海洋文化のイメージがわきあがる。  続きを読む


Posted by 愚華 at 11:08Comments(0)温故

2009年11月08日

谷崎の記憶違い、と吉井云い

昨日の京都新聞と朝日新聞に吉井勇の記事が出ていた。

京都新聞では一面の扱い。
「吉井勇の草稿発見」「平等院住職、東京で」「表記の違いの指摘削除」「谷崎潤一郎への配慮か」
という見出し。
京女について書いたエッセイの草稿だという。
ポイントは、谷崎潤一郎が「磯田多佳女のこと」の中で書いた、
吉井勇の歌に関する記述があるのだが、
谷崎の書いた事柄は記憶違いだろう、とした部分があり、
そこが最終的には削除されているということが草稿から判明したのである。

京都新聞には、その部分のカラー写真が載っているが、
どういう文章が削除されたのか、判読は非常に難しい。

朝日新聞では、社会面扱い。30面に載っていた。
「谷崎の誤り水にながるる」「かにかくに 友の配慮」「吉井勇、指摘直前に削除」
という見出し。
こちらでは、削除部分の一部が示されている。

「(谷崎は)私の歌が最初は、『かにかくに 祇園はうれし酔ひざめの 枕の下を 水のながるる』
としてあったといっているが、これは何かの思い違い」

全文が見たいものだ。

吉井勇のこのエッセイは、『オール読物』1952年2月特別号に掲載されたという。

「かにかくに 祇園はうれし酔ひざめの 枕の下を 水のながるる」が、
谷崎潤一郎の幻想の産物であることが、これで確定的になりそうだ。
この結果は面白い。
谷崎の回顧談などが、谷崎の生きてきた記録として彼の伝記を構成するときに使われるが、
批判的吟味が必要であることがよくわかるというものだ。
谷崎の伝記の洗い直しが必要、ということを示している。  


Posted by 愚華 at 08:35Comments(0)温故

2009年05月25日

サンタクロースの始まりなど

以前、今はなきJAZZ喫茶「しぁんくれーる」の広告が『プレーガイドジャーナル』に初めて載ったのは、75年9月号じゃない、と書いたことがある。(2008年11月3日)

そのときは、『プガジャ』の75年8月号は持っておらず、7月号には広告がないから、そう推定したのだが、友人が『プガジャ』の75年8月号をどういう経路か分からないが手に入れ、そこに「しぁんくれーる」の広告があることを言ってきた。

実物を見せてもらったが、確かにある。

ということで訂正。
まあ、今後もどんどんさかのぼるかもしれない。



その号(『プガジャ』75年8月号)だが、「風噂聞書」欄に興味深い記事が。

以下引用=盗用

「■京都のJAZZ喫茶ヤマトやの近くに「サンタクロース」というJAZZ喫茶ができました。オールアルティックの装置が圧巻とか。ライブスペースでもあるようだ。電話とか場所など詳しいことは次号で。」

ただ、今のところ、『プガジャ』の「次号」(75年9月号)に「サンタクロース」は見当たらない。

とはいえ、分かったのは、「サンタクロース」はこのころ出来たんだ、ということ。
少なくとも6年くらいはつづいたんだろうなあ。  

Posted by 愚華 at 16:21Comments(0)温故

2009年05月07日

『京都市電最後の日々』

散髪をして、待ち合わせ時間にまだ少しというので書店に入った。
丸山書店千本店である。
それなりに本がそろえてあり、この界隈ではよく使う。
マンガのそろいもなかなかしっかりしているし、文庫本のそろいもいい。
ただ、何か特色が欲しいところがないわけではない。
このジャンルは京都一、とか。

それはいいのだが、今回は「オヤ」「オッ」という本に入った瞬間に出会った。

高橋弘・高橋修『京都市電最後の日々(上)』(ネコ・パブリッシング、2009)である。
何も考えずに、ひょいと取り上げたところ、視野の隅にもう一つ。
吉川文夫・高橋弘『N電 京都市市電北野線』(ネコ・パブリッシング、2002)だった。
オオ、という感じ。参考文献表に載っているのを見たことがあったが、実物は初めて。
中身はかなり充実。さっそく2冊とも購入した。(各1000円+税。高くはない。)

いずれも写真満載で大変面白い。じっくり読み、写真も舐め眺める予定。



なんか題もいい。「最後」というところに感じるものがある。
(表紙写真は四条京阪付近)



「N電」の由来も学習できた。
(表紙写真は北野神社付近)  

Posted by 愚華 at 11:38Comments(8)温故

2009年04月04日

近代遺跡がよく見える。

堀川に水が流れてもう一週間以上たった。
まだ3月の時点で、京電の跡付近を見に行った。
ちょうど堀川中立売のあたり。



ここを下りる。



これが堀川第一橋。明治初期のものらしい。いままで上を通っていただけだが、下りて実物をみるとなかなか風情がある。石の文化だ。よくこの付近で映画のロケがあるが、この橋ならさもありなん。
これは北から。

南からみると…。



京電跡は。



解説の看板も設置された。



観光としてはちょっと、かも知れないが、近代の京都の歴史を知る散歩にはいい。
  

Posted by 愚華 at 15:54Comments(0)温故

2009年03月10日

しぁんくれーる跡

高野悦子/『二十歳の原点』といえば「しぁんくれーる」という回路が愚かにも出来ている。
先日何世代かにわたる数人で河原町荒神口付近を南下。
と、団塊の世代の人間が、あそこが「しぁんくれーる」のあとだよな、とボツリ。
30代の人間は何のことやや訳が分からずにいる。

団塊の世代さんは、立命館大学の校舎跡についても解説。
歩いてめぐる京都の近代史のようになってしまった。

ところで、「しぁんくれーる」は、『二十歳の原点序章』には登場しない感じ。
もしかすると、高野悦子はそこへ行っていたのかもしれないが、
1967年4月から1968年12月31日にまでには記載がない。

登場は『二十歳の原点』。
1969年2月1日の日記。

「11時ごろ「シアンクレール」で」という文章からその日の日記は始まる。
ショパンの曲を聴いて慰められた状況を記載。

「しぁんくれーる」は、基本はジャズ喫茶だったが、
一階か二階かどちらかはクラシックも流していたように記憶する。

現在も建物だけは残る、岡崎の「サンタクロース」も同じコンセプトだった。

「しぁんくれーる」跡は、今は歯科医院の駐車場。

  


Posted by 愚華 at 10:47Comments(2)温故

2009年03月06日

1951年の街案内

こちらの技術のなさで曖昧模糊模糊の写真になったしまった。

岩波写真文庫に載っている仁丹看板である。



解説部分はこうなっている。
「京都市内は平安京の都市計画を今に残してきっちりした碁盤目の町をなし上ル、下ル、東入、西入で目ざす所はすぐ分かる」

右の看板は、「竹屋町通室町東入」とあり、左の看板には、「室町通竹屋町上ル」とある。
「区」は確認できない。また「町名」もあるが、これも確認できない。

岩波写真文庫27『京都 ― 歴史的に見た ―』の59頁。
現在の京都(「九 今の京都」)の部分に掲載。



2009年3月11日追加↓

岩波写真文庫の街案内看板はその記載から見て、室町竹屋町の北東角の建造物に二つ貼られていたと思われる。
今日仕事で付近を通ることになったので、勤務中だが少し寄り道した。
駐車場になっていた。


  


Posted by 愚華 at 18:15Comments(0)温故

2009年03月03日

三条通の電車?

「平安通志」に載った「現今京都市街図」という地図がある。
これは明治28年の京都市街を示した地図とされている。1895年のことだ。

交通機関としては「鉄道」と「電気鉄道」が記載されている。
そのうち、「電気鉄道」の路線が、どうも腑に落ちない。
京都駅から、3本の線が出ている。
一つは南へ行くもの、竹田街道を伏見に向かう。
もう一つは、北へ、そして木屋町へと向かう。終点の一つが岡崎の博覧会場だ。
さらにもう一つ、駅から西に走りはじめやがて、西洞院を北上する線も書かれている。

この三つ目が解せない。
これはもしかして計画路線で、この時点では、実際には開通していないのではないか?
この路線をたどると、西洞院を上り三条通で西に向かい、堀川で北上し、下立売で東に曲がる。
そして寺町丸太町で、もう一本の線とつながり木屋町二条まで行く。

この三つ目があると非常に合理的だが、これに似たものが開通するのは、さらに7年後ではなかったか。
たとえ狭軌の電車でも、三条通を走った記録ない気がするのだが。(京津線は別にして)

また謎が増えた。  

Posted by 愚華 at 15:44Comments(0)温故

2009年02月26日

初京

堀内清著「竹久夢二とミスデントン」という論文を見つけた。

それによれば、

「明治四十三年(1910年)の春、彼は私の招きに応じて初めて京都を訪ね、私の上出水の家にしばらく滞在したが、古都の風物は彼の心に何物かを強く印象付けたのであった。」

という。

ここでは「彼」が竹久夢二、「私」が堀内清である。  
タグ :竹久夢二


Posted by 愚華 at 17:10Comments(1)温故