2008年10月21日
「二十歳の原点」と交通
高野悦子は、『二十歳の原点ノート』『二十歳の原点序章』『二十歳の原点』という3つの日記を残している。
生れたのは、1949年1月2日。
亡くなったのは、1969年6月24日未明。
自死である。
1967年4月に立命館大学文学部に入学。
2年と2ヶ月、帰省をのぞいて、京都に住んでいた。
はじめの「下宿」は、京都山科。
「日記」等では「青雲寮」とされているが、仮名であろう。
1968年4月に、下宿を嵐山にかえる。
1969年4月には、丸太町御前付近の下宿に引っ越す。
当時立命館大学文学部は、広小路にあった。
いま、京都府立文化芸術会館があるあたりである。
河原町には市電が走っていたので、山科からは、電車利用の場合、
京津線で三条京阪まで来て、三条大橋を渡り、三条河原町から市電で北向するというのが通常のルートだろう。
嵐山から、というのは難しい。
おそらく、いわゆる「嵐電」で四条大宮まで出て市電に乗り換えるか、
阪急で嵐山から桂に出て、そこから四条河原町まで行き、市電に乗り換えるか、であろう。
(国鉄もありえるが、二条駅で降りてから広小路まではやや煩雑)
市電の四条線は、「京都市電物語」の年表では、1972年1月廃線であるから、
高野悦子は、十分利用できた。
丸太町御前からは、難しくない。自転車も利用したようだが、公共交通機関なら、市電丸太町線で行けばいい。
河原町丸太町から広小路校舎まではそんなに遠くないから、歩いても大丈夫。
もちろん河原町線を利用できた。
『二十歳の原点』の都市的基盤は、「市電」だったのでは、と思ってします。
生れたのは、1949年1月2日。
亡くなったのは、1969年6月24日未明。
自死である。
1967年4月に立命館大学文学部に入学。
2年と2ヶ月、帰省をのぞいて、京都に住んでいた。
はじめの「下宿」は、京都山科。
「日記」等では「青雲寮」とされているが、仮名であろう。
1968年4月に、下宿を嵐山にかえる。
1969年4月には、丸太町御前付近の下宿に引っ越す。
当時立命館大学文学部は、広小路にあった。
いま、京都府立文化芸術会館があるあたりである。
河原町には市電が走っていたので、山科からは、電車利用の場合、
京津線で三条京阪まで来て、三条大橋を渡り、三条河原町から市電で北向するというのが通常のルートだろう。
嵐山から、というのは難しい。
おそらく、いわゆる「嵐電」で四条大宮まで出て市電に乗り換えるか、
阪急で嵐山から桂に出て、そこから四条河原町まで行き、市電に乗り換えるか、であろう。
(国鉄もありえるが、二条駅で降りてから広小路まではやや煩雑)
市電の四条線は、「京都市電物語」の年表では、1972年1月廃線であるから、
高野悦子は、十分利用できた。
丸太町御前からは、難しくない。自転車も利用したようだが、公共交通機関なら、市電丸太町線で行けばいい。
河原町丸太町から広小路校舎まではそんなに遠くないから、歩いても大丈夫。
もちろん河原町線を利用できた。
『二十歳の原点』の都市的基盤は、「市電」だったのでは、と思ってします。
Posted by 愚華 at 12:43│Comments(1)
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この記事へのコメント
1967年に「王将」の一号店が四条大宮にできたというから、高野悦子は利用できたはずだ。
ざっと見たところ日記に記載はない。
「珉珉」にいった記録はある。
ざっと見たところ日記に記載はない。
「珉珉」にいった記録はある。
Posted by 愚華
at 2008年10月21日 12:57
