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Posted by 京つう運営事務局 at

2013年02月08日

「進々堂」100年

北山の「進々堂」へ行った。

「続木斉物語」という小冊子があったのでいただいた。

創業者の続木斉(1883~1934)についてなど。

それによれば、1913年、京都の左京区吉田に最初の店(「進々堂」パン屋)をかまえた。
1914年に火事にあい店舗が全焼。
その後、堀川竹屋町に移転。小冊子ではこれがいつかは明確ではないが、1914年から15年の間だろう。
場所の堀川竹屋町も明晰ではない。堀川がまだ拡幅されていないので、
堀川商店街(この名称でいいかどうかは問題があるが)の南端にあったのかもしれない。
尾上松之助の豪邸がもう出来ていたかどうか?
大正天皇の即位式典が、進々堂発展の契機になったと記載されている。
これは1915年。
1920年に竹屋町寺町に移転。
当時寺町が京都の繁華街の中心だったためと推測される。
やや南にはカフェ≒喫茶(+和菓子そのほか)で老舗の鎰屋もあった。

進々堂京大北門店も続木斉が1930年に開いたものだが、
この小冊子には言及がない。
現在経営が別々だからなのだろうか?  

Posted by 愚華 at 12:23Comments(0)探消

2012年12月29日

『京の味』1966

『京の味 名所とたべもの』という本を古本屋で見つけた。
著者は、岩城もと子。1966年出版。
古本屋にあったのは、1973年に発行されたもの。「17刷」である。

この本はどの程度重要かわからないが、一つのポイントにすることは可能だろう。

戦後、いつごろから、京都の「味」が観光の魅力的要素として浮上したのか。
それを考える上でポイントとすることが出来るのでは、ということだ。


この本の出版社は、保育社。
いまはないが、大阪で、図鑑を出していた出版社として有名だった。
(1999年倒産、しかし、別会社の子会社として2007年再スタート。)
(↑「いまはない」という表現でいいのかやや問題かな)
カラーブックスシリーズもヒット商品と記憶している。
この『京の味 名所とたべもの』もこのシリーズ。

『京の味』は、シリーズでいえば、115番目(No.115)のものだった。

これ以前に「味」と冠した食をテーマにするものは一つだけである。
『ヨーロッパの味』で、「No.74」である。

「京都」は「No.2」が『桂離宮』で、はじめからカラーブックス中軸テーマ。

「京都」という軸と「味」という軸の交差が『京の味』であろう。
7年で「17刷」ということはヒット作である。


京都の名所をみて、その後ちょっと足をのばして味わう、
禅料理、懐石料理の系譜にある料理、というコンセプト。  

Posted by 愚華 at 17:48Comments(0)探消

2012年12月24日

しる屋

大久保恒次のエッセイ集をチラ読みしている。

「みそしる」という文があり、その出だしが面白い。

「しる屋というものが存在していたのである。白味噌汁で、タネは客に好みまかして、
季節の魚が書きならべてあり、ごぼうの笹がきが必ず入っていて、『雑煮』とて、
餅をタネにしたのが年中あった。そのしる屋で有名なのは大阪心斎橋うなぎ谷にあった
『しる市』この店は今はないが、『しる』と大書した提灯や看板はときどき場末で見かける。
要するに汁だけ売る店で、他地方にはない珍しいものといえよう。」

「しる屋」という形態がまずすごい。
この文章で初めて知った。
まだあるかもしれないが、これが書かれたのは、1956年頃、それ以前だから、
おそらく今は、「しる屋というものが存在していたのである」という表現となろう。
1956年頃には、「『しる』と大書した提灯や看板」が「ときどき場末で見かけ」られていたが、
絶滅したのではあるまいか。

ネットで少しチャックしても、屋号として「シルヤ」と発音するものはあるようだが、
一つの外食形式としては存在していない模様。

勉強しない人間に便利なウィキにもない。


なんか面白い。
そこで食べた人を探したい。

もしかすると新しい外食形式として再興可能かもしれない。
洋風なら「スープ屋」、和風なら「しる屋」。
「スープ屋」はありそうなので、ここは和風で攻める手はある。  

Posted by 愚華 at 14:37Comments(0)探消

2012年07月26日

また無くなった

7月のはじめ、東一条付近に用事があって出かけた。

用事も終わり、そうだ本屋に寄ろうと東大路を北上。

百万遍交差点を渡って愕然。

レブン書房が閉店していた。6月30日で閉めたという。
大学生の本離れが原因なのだろうか。

私の友人はここで『プレイガイドジャーナル』なるものに出会ったといっていた。

小さいがいい本屋だったと思う。  


Posted by 愚華 at 19:21Comments(1)探消

2012年02月14日

ドジハウスの解体

今朝、ドジハウス前を通ったら、
ドジハウスの解体が始まっていた。


素晴らしいき、心地よき空間も、永遠ではない。  続きを読む


Posted by 愚華 at 16:44Comments(0)探消

2011年10月23日

マクド京都2号店

京都でのマクド1号店は、藤井大丸店であった。
はっきりしていなかったのだが、1972年7月1日に開店したようだ。
関西、あるいは、西日本へ、マクドナルドが進出した第一号だった。

72年7月13日付のとある新聞に、こうある。

「外資系ハンバーガーチェインの日本マクドナルド…が
関西進出の拠点に選んだのは京都…」
1号店は
「藤井大丸百貨店前店舗」
「続いて」
「中京区に新築されたセブンツービル一階に十六日
第二店を開店する」

この「新築されたセブンツービル」というのが分からなかったのだが、
ネット内のブログから情報を得た。

「新京極シネラリーベ」のHPに「映画館の中」というスタッフブログがある。

2006年9月22日に、「新京極シネラリーベ」の歴史をまとめている。
引用=盗用しておこう。

「…
■新京極シネラリーベ
明治44年の大火後、現在地にM・パテー商会がパテー館を新築、もっぱら活動写真常設館であった。
大正5年、天活(天然色活動写真KK)の経営となり、次に大正9年、日活(日本活動写真KK)の系統となって、朝日館と命名、のち、昭和6年、マキノキネマ東活倶楽部、昭和13年に、国際映画劇場とそれぞれ改名、邦画、洋画を上映していた。
戦後、京極日活となり、昭和28年、京都弥生座と改称、昭和47年セブンツービルとして3F劇場が弥生座、地下劇場がテアトル72となり、その後統合されて京極弥生座に。
(以前弥生座の1Fにあったマクドナルドも昭和47年の開館当時からあったそうです。2Fはなんと蝋人形の館!)
そして平成18年2月、劇場を大改装し新京極シネラリーベに。
…」

「昭和47年セブンツービルとして3F劇場が弥生座、地下劇場がテアトル72」になった、
という記載と
「以前弥生座の1Fにあったマクドナルドも昭和47年の開館当時からあった」
という記載が
重要。


つまり、新京極・弥生座の一階にマクドナルド京都2号店=関西2号店があったわけだ。
二階に椅子テーブル席があったような感じもするがどうだろう。

日本マクドナルドの公式HPで店舗を検索しても、現在は新京極にマクドはない。
京都2号店はいつ姿を消したのだろうか?


新京極商店街HPストリーマップより(改変)  


Posted by 愚華 at 15:39Comments(1)探消

2011年10月17日

北山通「カフェ・ドジ」閉店(2011年12月31日)

北山通りに「カフェ・ドジ」というカフェがある。

1977年開店。35年の歴史を誇る。
ゆったりしたいす机。ぜいたくな空間。美味しいフードとドリンク。
世界的レベルのカフェといってもいいのでは、というところ。

川口葉子『京都カフェ散歩』(祥伝社、2009)では、「ドジ」を

「現代的カフェのスタイルの起源」の一つ

と位置づけている。


先日チキンカレーをいただいたが、
水色の三匹の犬」のシルエットが配されたフライヤーを見つけた。

悲しいお知らせである。

「この度、Cafe DOJI は12月31日をもちまして

一旦 クローズすることになりました.」

とあった。


また一つなくなるわけだ。


新しい空間は、バリ島か京都か琵琶湖に予定されている。
足と金のない愚かな者にとっては、京都の新空間を希望したい、
が…。  


Posted by 愚華 at 17:49Comments(0)探消

2011年09月24日

変遷する京都のマクド

マクドナルドの日本における1号店は、1971年7月20日に三越銀座店1階にオープンした。
ハンバーガーは一個80円。
重要なのは、第一に、座席がなく立ち食い歩き食いを前提とした店だったこと。
第二に、「アメリカン」のイメージを前面に出したこと。
『朝日新聞』を見ると、「青い目のホステスを使」い「本場の味」を強調して宣伝している。
当時盛り上がっていた学生運動はこれをアメリカ帝国主義の先兵とは見なかったのか。

で、今年は、マクドナルド日本上陸40周年だったわけだ。

関西1号店は、1972年に出来ている。
京都の四条通、藤井大丸の1階。
写真を見るとここも座席がなかったように見える。
とすれば、来年マクドナルド関西進出40周年となる。


(オリジナルを加工。©不明)

新京極にも一軒かつてあったように思うが、記憶違いだろうか?

最近と思うが京都で2件閉店している。(2010年か?)
関西1号店が移転した、「四条寺町店」。
これまた長い歴史をもっていたと思う、「三条河原町店」。
http://portal.nifty.com/cs/mitaiwa/detail/101002135636/1.htm(「いしだ さん」による))

その前に同志社付近の店が無くなっている。

烏丸今出川南西角にあった店。モスに負けたのかも。

河原町今出川南西角の店。こちらはまだあった。
あまり利用していないから、愚かな頭からは消滅していたが…。


マクドナルドが京都のどこにあったか、ということも、
70年以降の京都を知る上では重要なことだ、と愚かにも思ったりするが…。  続きを読む


Posted by 愚華 at 19:27Comments(0)探消

2011年09月13日

谷崎潤一郎の宿

ほぼ5年前、『朝日新聞』に、谷崎潤一郎の書簡の発見と展示の記事が出た。
谷崎の初の京都訪問に関連する書簡であったので興味を持った。
しかし、あまり周辺を見ていなかった。

ということでちょっと見てみると…。


まず『朝日新聞』の記事で重要そうなところを抜いておくとこうなる。

「書簡は8月5日付で東京から京都の旅館「八千代」に出されたもの。当時、谷崎は文壇に出て3年の新人作家で、東京日日新聞に見聞記を書くため八千代に滞在していた。大阪・住吉に出かけた際に人力車から落ち、具合がよくならずに予定を切り上げて直接東京に戻った。
和紙に「停車場附近(ふきん)尓(に)て人力車よりマッサカサマ尓叩(たた)き落とされ脳をひどく打ちて汽車はおろか歩くことかなわず(中略)何しろ旅先の事とて心細さ限りなく」などと無断帰京の顛末(てんまつ)を細かに記している。」(2006年7月初め)

同じ頃の『読売新聞』には、少し別の情報が載っていた。重要部分を抜いておく。

「書簡は京都の木屋町仏光寺にあった旅館「八千代」あてで、大正元年8月5日の消印がある。…(略)…谷崎は、大阪・住吉を見物に行った時に人力車から落ちて頭を打ち、旅館に断らずに東京へ引き揚げた。書簡では旅館にこの事情を説明し、不在中に着いた手紙や小包の処置を頼んでいる。
縦18センチ、横237センチの横長の和紙に毛筆で書かれ、封筒は黄ばんでいるものの、中の保存状態はきわめて良い。書簡を調べた同館副館長のたつみ都志・武庫川女子大教授は、「筆跡や、当時の谷崎の拠点だった東京・京橋の旅館『真鶴館』から出されたことからみて、直筆に違いない」としている。」(2006年6月末)


これで「八千代」が木屋町仏光寺にあったことが分かる。
ほかの資料を見ると、「東木屋町松原上ル」にも「八千代」があった。
おそらく同じもの。
旅館とされてきたが、「貸座敷」「席貸」のようだ。「旅館」も兼業なのだろう。
とすると、仏光寺より南で松原より北。
対岸が見えていたので、加茂川の西岸に面しているはず。
これでおよその地域が特定できた。



「京都市街全図」1913より


*「京電」の二つの駅の間、線路より右、ということか。  
タグ :谷崎潤一郎


Posted by 愚華 at 16:14Comments(0)探消

2011年06月30日

消える喫茶店

昨日の『朝日新聞』だったか、同志社大学の向かいにある、
烏丸今出川上ル西側に位置する
喫茶店わびすけが、
今日(6月30日)で閉店という記事が出ていた。

ネット版の京都新聞の記事の一部は以下の通り。



http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110630000032

「わびすけ」の前身は「中井ミルクホール」といっていたらしい。
大正の初期に出来たという。
とすればちょうど百年くらいか。
前身がミルクホールというのも面白い。

1976年に発行された『京都青春街図』(第2版=第2刷)では、こう紹介されていた。

「□わびすけ
地図8 ☎075・451・6340
烏丸通を見下す2階にある、京都でも最も古い喫茶店のひとつ。
客は同大生が9割を占めている。
一人で行くのは早朝か大学の休みの時期にした方が落ちつけてよいのです。
コーヒー¥200(午前9時~午前10時¥150)。午前9時から午後6時半。」

「…よいのです」という文体が70年代半ばを感じさせる。
いわゆるモーニングをやっていたようだ。


木村衣有子『京都カフェ案内』(平凡社、2001)や
川口葉子『京都カフェ散歩』(祥伝社、2009)では、
取り上げられていない。
  

Posted by 愚華 at 19:53Comments(0)探消

2011年06月09日

良き銭湯が消えていた

最近何度も前を通っても開いていないので気になった銭湯。
初音湯。(初音温泉)
閉店したということがわかった。
すごく残念である。

閉じたのは、2011年3月31日。
(以下イメージは、「蕎麦初音屋」のHPからの引用。)



サウナがよかった。



水風呂もよかった。
地下水を利用していたと思う。
2010年の大雨の時、水風呂の水も少し濁っていいた。
臨場感あり、だったのに。

浴槽もよかった。
お湯がたっぷりなのだ。

あとすごかったのは午前2時までの営業。
京都はもとより、いろいろな方面からお客さんが来ていた。



「蕎麦初音屋」HPアドレス↓
http://soba-hatsuneya.com/index.htm  

Posted by 愚華 at 15:17Comments(0)探消

2011年04月30日

新しい京都

伝統こそ京都、というのはやはりいただけない。
しかし、大体そのイメージが広く深く浸透している。

ところで、新しい試みを一つ見つけた。

「nikiniki 1689」

四条木屋町北西角。
1689というのは西暦、と思う。
聖護院八橋が試みる新しさ。

値段が高いというネット上の評価もあるが、そうは思わなかった。

お菓子をいただいたが、おいしい。

日持ちしないので、お土産にはなかなか難しいが、
そこがかえって貴重な感じでいいかもしれない。  

Posted by 愚華 at 16:09Comments(0)探消

2011年01月06日

町屋に仁丹板はよく似合う

去年のものだが…。

今年どこに新しいのが設置されるか楽しみ。
設置には、ひと工夫が欲しい、と思っているが。
ただ、工夫が無いのも工夫とも言える。



  

Posted by 愚華 at 17:51Comments(0)探消

2011年01月04日

昭和文学、高見、谷崎。

高見順の『昭和文学盛衰史 上』は、花袋秋声祝賀会から始まっている。
1920年11月23日開催。
高見は、この会を、大正期の日本の小説家、作家が、ほぼもれなく集合した会合と捉えている。
その作家や小説家たちは、「大正文学」の担い手、ということであろう。
あるいはプレ昭和文学の担い手だ。
高見は、プレ昭和文学にあるものが加わることで、
昭和文学というもの、またその難しさがたちあらわれたという。
何が加わったのか。「思想」である。「社会思想」である。
より具体的には社会主義、マルクス主義だ。

さて、となると、谷崎潤一郎は、もちろん「昭和文学」に入らない。
そのためか『昭和文学盛衰史 上』に谷崎潤一郎はほとんど登場しない。
花袋秋声祝賀会の記念小説集には、谷崎潤一郎は寄稿している。そのことがまず触れられている。
その後谷崎は長くフェードアウト。
次に登場するのは、築地小劇場の芸術派の分派劇団「新東京」の上演戯曲の作者として。
1930年10月に「新東京」は、谷崎潤一郎作「恐怖時代」を演じた、という。
そして、またフェードアウトし、谷崎が前面に出てくるのは、この上巻の最後の最後である。
1933年、この年谷崎は「春琴抄」を発表。
高見による表現ではこうなる。

「昭和八年という年は興味ある年と思うのである。谷崎潤一郎が名作『春琴抄』を発表したのも昭和八年のことである。昭和六年に『盲目物語』を書き、七年に『蘆刈』を書き、そして八年にこの『春琴抄』を書いたのだが、この『春琴抄』はそうして昇りつめたひとつの頂点である。昭和期に入つての谷崎文学の頂点が、この昭和八年に発表されたのである。」

思想系文学、左翼文学の退潮と、これは関連がある、と高見はおそらく考えていた。


さて、谷崎の『痴人の愛』は、1924年3月に連載開始。25年7月に完結。
これは、『昭和文学盛衰史 上』では語られない。
もちろん『卍』も『蓼食う蟲』も『吉野葛』も出てこない。


(高見順:1907年1月30日 - 1965年8月17日、谷崎潤一郎:1886年7月24日 - 1965年7月30日)

  


Posted by 愚華 at 23:45Comments(0)探消

2011年01月02日

新しいこととしての『昭和文学盛衰史 上』

突然だが「昭和文学」への関心が降ってきた。
昨年末に古本屋で、高見順の『昭和文学盛衰史 上』を見つけ読んだからである。
(福武書店版、1983)

なんと多くの表現者が、表現をなしたにもかかわらず、現在の集合的記憶から、消え去ったのか。
そしてその背後に、表現もできなかったが、表現したかったものたちが、また、
その表現を読みなぞったものたちが、いたのか。そして、もはや誰の記憶にも残っていないのか。
慄然となる。

高見順も、いまや、読まれない人、集合的記憶から消えつつある人だ。
いや、もう消えてしまった人かもしれない。

ただ、幸いなことに「百年文庫」に少なくとも一編は収録されたようだ。

それにしても「昭和文学」は、古典にもならない運命なのか。  
タグ :高見順


Posted by 愚華 at 10:32Comments(0)探消