2008年10月17日
幹彦の葉書
長田幹彦は、明治45年、1912年に京都を訪れ、そこで京都の、そして、祗園の魔に取り付かれた。
祗園や京都で遊ぶために、祗園や京都の小説を書いていった、
と、言ってもいいかもしれない。
のちに、小唄もつくり、最も有名なのが「祗園小唄」である。
ところで、幹彦は、京都に来て二日目に友人に葉書を出していた。
その友人は太田正雄=木下杢太郎である。
「一昨日入洛…
昨夜都踊りを見物…余りに期待の大なりし為か、disillusionのみ心に残りて口惜しく候。たゞほの暗き小路の行燈の下をゆくだらりの帯の美しさにハ魅せられ居候。」
12日付なので、4月10日入洛と分かる。11日は都踊り見学。
都踊りには失望したようだ。
その幹彦の「祗園小唄」が都踊りなんかで歌われているというのは面白い。
また、「祗園小唄」では「祗園恋しや だらりの帯よ」が繰り返されるが、
初めての遊洛時から、幹彦は、「だらりの帯の美しさ」にやられていたこともわかる。
祗園や京都で遊ぶために、祗園や京都の小説を書いていった、
と、言ってもいいかもしれない。
のちに、小唄もつくり、最も有名なのが「祗園小唄」である。
ところで、幹彦は、京都に来て二日目に友人に葉書を出していた。
その友人は太田正雄=木下杢太郎である。
「一昨日入洛…
昨夜都踊りを見物…余りに期待の大なりし為か、disillusionのみ心に残りて口惜しく候。たゞほの暗き小路の行燈の下をゆくだらりの帯の美しさにハ魅せられ居候。」
12日付なので、4月10日入洛と分かる。11日は都踊り見学。
都踊りには失望したようだ。
その幹彦の「祗園小唄」が都踊りなんかで歌われているというのは面白い。
また、「祗園小唄」では「祗園恋しや だらりの帯よ」が繰り返されるが、
初めての遊洛時から、幹彦は、「だらりの帯の美しさ」にやられていたこともわかる。
Posted by 愚華 at 18:43│Comments(0)
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