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2009年02月01日

1913年…『祗園』

野田宇太郎は、祇園が近代文学、特に、小説に出現するポイントとして、長田幹彦の『祗園夜話』をあげている。(この点は前に触れた。)これは、1915年春に千草館から出版されたようだ。

ではあるが、それ以前、長田幹彦は既に、京都で/について書いた小説を集めた書籍を出版している。国立国会図書館に所蔵されている(らしい)『祇園』がそれだ。国立国会図書館のデータによれば、1913年、大正2年、浜口書店から出されたという。

これが、小説における祗園表象や舞妓表象の出現の一つのポイントではないか。

もちろん、これも前に書いた、虚子の「風流懺法」は重要で、1907年春のもの。
また、1908年の春に、虚子がふたたび発表した続編の小説「続風流懺法」も落せない。
ただいずれも、幼い舞妓と、これまた幼い小僧の間の、まさしく幼い「恋」が主題。
その点で、長田の祇園ものと大きくちがうはずだ。

さて、『祗園』である。
とある新聞が伝える長田幹彦の消息を見ると、1913年4月には、『祗園』は5月に出版される、とされていた。しかし、実現しなかった。同じく5月半ばの消息では、目下校正中と報じられた。しかし、どうも6月にも、7月にも、8月にも、9月にもでていない。
12の短編からなる『祗園』がようやく製本中とされるのが10月。
10月のおわりに、幹彦は、「祗園に餞す」というエッセイを書いて、一つの区切りとしようとした。
(『祗園』の出版は、このエッセイ発表前後と推測される)

そのエッセイではこの『祗園』が収穫でありはなむけであると語られている。そして祇園に「サラバ」と別離を告げている。

にもかかわらず、長田幹彦は、2年後に『祗園夜話』に戻るわけで、そこの経路が、興味深そうだ。


タグ :長田幹彦

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Posted by 愚華 at 18:53│Comments(0)温故
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