2011年01月02日
新しいこととしての『昭和文学盛衰史 上』
突然だが「昭和文学」への関心が降ってきた。
昨年末に古本屋で、高見順の『昭和文学盛衰史 上』を見つけ読んだからである。
(福武書店版、1983)
なんと多くの表現者が、表現をなしたにもかかわらず、現在の集合的記憶から、消え去ったのか。
そしてその背後に、表現もできなかったが、表現したかったものたちが、また、
その表現を読みなぞったものたちが、いたのか。そして、もはや誰の記憶にも残っていないのか。
慄然となる。
高見順も、いまや、読まれない人、集合的記憶から消えつつある人だ。
いや、もう消えてしまった人かもしれない。
ただ、幸いなことに「百年文庫」に少なくとも一編は収録されたようだ。
それにしても「昭和文学」は、古典にもならない運命なのか。
昨年末に古本屋で、高見順の『昭和文学盛衰史 上』を見つけ読んだからである。
(福武書店版、1983)
なんと多くの表現者が、表現をなしたにもかかわらず、現在の集合的記憶から、消え去ったのか。
そしてその背後に、表現もできなかったが、表現したかったものたちが、また、
その表現を読みなぞったものたちが、いたのか。そして、もはや誰の記憶にも残っていないのか。
慄然となる。
高見順も、いまや、読まれない人、集合的記憶から消えつつある人だ。
いや、もう消えてしまった人かもしれない。
ただ、幸いなことに「百年文庫」に少なくとも一編は収録されたようだ。
それにしても「昭和文学」は、古典にもならない運命なのか。
Posted by 愚華 at 10:32│Comments(0)
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