『京都今昔歩く地図帖』=欠陥書籍

愚華

2011年10月12日 17:09

最近学研から『京都今昔歩く地図帖』という本が出た。
ネットでは評判がいいらしいが、こんなひどい本は前代未聞である。
良心的出版社、良心的著者なら絶版にするのが普通では。

まあ、しかし、学研は、この本を売るために出しているようだし、
著者の井口悦男と生田誠も、校正くらいはしていて目は通して、
これでOKしたから、「良心的」ではないだろうなあ。

せめて、訂正本を出すのだろうか?
その時は初版のひどいのと換えてくれるのかなあ。
こっそりやるだろうから、取り換えは無理だろうと思う。
これ「落丁」や「乱丁」にはならないね。何に当たるのだろう。
(一応「欠陥書籍」という概念を作ってみた)



対外的に何かアピールするかなあ。
(事情を明らかにして、購入者へ謝罪、など)
学研という会社と、両著者の社会的信用問題と思うが…。


既にネットでも指摘があるが、104頁の「新京極」の写真。
説明は「江の島」である。驚愕、これには。
誰が編集者かわからないけど、能力疑う。


驚くのは、13頁。本文の始まりが12頁だから、出だし。
次のようにある。

「四条通、東大路(東山通り)に市電が走るのは、大正元(1912)年12月で、
昭和47(1972)年1月まで運行されていた。」

いきなりこんな不正確な解説か、と思ってしまった。
あとでわかるが、これは序の口に過ぎなかった。

本書の85頁には、「蒸気機関車」というコラムがあり、
かつての東海道線が今の東海道線と違っていて、
例えば山科駅も位置が違うから気をつけろよ、
当時の絵葉書のキャプションを信じ込んではいけない、
疑うことが必要だ、と絵葉書コレクターの蘊蓄と恫喝が書かれている。
しかし、両著者はその原則にのっとって、この本を書いたのだろうか。

京都の市電であるが、四条線は、1912年6月11日に、八坂神社のところまで、
開通している。たしかにその時は八坂神社前の東大路はまだ未開通。
同年の12月25日開通だ。
これを、
「四条通、東大路(東山通り)に市電が走るのは、大正元(1912)年12月」
と、表現していいものやら。読者・消費者をばかにしているか、
両著者が間違っているか(校正しないとか)、どっちかじゃないだろうか。

廃線についても同様。
四条線は、1972年1月22日に終了。
「祇園」を通っていた東山線は、最後まで残り、1978年9月30日廃線。
これを、
「四条通、東大路」の「市電」は「昭和47(1972)年1月まで運行されていた。」
と、表現していいものやら。読者は愚かで不正確もOKということか。


これもやや驚くが祇園のお茶屋の「一力」を、
「料亭の一力亭」と表現して正しいのだろうか。(14頁)
間違いとまではいかないだろうが、違和感は残る。

とまあ、こんな連続。いちいち挙げてたらきりがない。

絵葉書も現在の写真もこの本には載っていない「菊水レストラン」へ言及して、
「大正5(1916)年、アールデコ、スパニッシュなどの諸様式を取り入れた
洋館の西洋料理店「菊水館」が開店」
ともある。(74頁)
レストラン菊水のHPから、おそらくカットアンドペーストしただけだろう。
しかも、HPをきちんと読んでないから、アールデコ・スパニッシュ様式の
洋館の建ったのが1926年というのを落としている。
ひどすぎる。



「京都を訪れた夏目漱石は、円山公園の也阿弥ホテルに宿泊している」(50頁)
これは初耳だが、事実ではないはずで、だから初耳。
漱石の京都訪問で、也阿弥に宿泊可能性が零ではないのは、第1回の上洛。
子規と一緒だった。
この時は柊屋に泊ったと年譜などにはある。
「事実」の捏造か、単なる誤りか、新資料でも発見か。



『五番町夕霧楼』の舞台が上七軒と解説しているが(165頁)
だったら「題」が変わるでしょう。
両著者も編集担当も、ウィキさえ調べてないようで唖然とするばかり。



京都の書店では平積みされているところもある。
このまま、この不良品を売り続けるのか、注目に値する。
2011年10月13日
学研パブリッシング社長は、増山敬祐。

2011年10月12日時点での「トップメッセージ」には、

「求められている情報を「正確」に「わかりやすく」提供することを第一に考え、活動しております」

と書かれている。

今回の新書、わかりやすさでは、使用した京都の現在の地図が
かなり見にくいという点があるが、それなりにクリアしている、
と思う。
しかし、不正確な情報や間違った情報を流している点では、
増山の「トップメッセージ」とは相いれないとも思う。
どうなることやら…。


2011年10月16日
この新書であるが、発刊記念イベントがある。

その1 祇園コース
開催日 2011年11月3日(木・祝) 
    8:45~14:00(雨天決行)

その2 清水コース
開催日 2011年11月5日(土) 
    8:45~14:00(雨天決行)

案内役・講師は何れの回も、
生田誠(『京都今昔歩く地図帖』著者、絵葉書研究家)、
および、森安正(同カメラマン、絵葉書収集家)。

申し込み先・連絡先は何れの回も
季節料理「ちとせ」である。

「その1」では、也阿弥ホテル跡を見る可能性もある。
どう説明するのか。

発刊イベントの前に訂正の表でも作ってほしいところであるが。


2011年10月17日
書評家で古本ライターに岡崎武志という人物がいる、らしい。
谷崎賞受賞パーティーによばれるのであるから、かなりの業界人であろう。
たぶんライターとしてもそれなりの位置と推察する。
ただ、岡崎の本や文章は読んだ記憶がない。

ところで、
彼のブログがハテナダイアリーに「okatakeの日記」と題されて公開されている。
その2011年10月14日の日記で、かの欠陥書籍にふれている。


岡崎によれば、『京都今昔歩く地図帖』は、

「出せば必ず売れる、うらやましい井口悦男・生田誠の古絵葉書シリーズ」

の一つという位置づけ。

なるほど、と思う。

また、その評価は、

「これは場所の特定と、現在の場所との比較など、労作ですよ」

とのこと。シリーズ全体の評価と読めるが欠陥書籍も含めてもいる。

……、と思う。


ネットで調べると、彼は、
『昭和三十年代の匂い』(学研新書、2008)という本を出している。
これは興味を引く。


2011年10月19日
日本経済新聞の2011年10月5日付電子版に、
ベストセラーの調査が載っていた。

データは「アバンティブックセンター京都店」のもので、
9月26日から10月2日までのもの。

恐ろしいことに欠陥書籍である『京都今昔歩く地図帖』が第3位である。


2011年10月20日
この本、絵葉書はそれなりによくて楽しめるのに、
情報の精度と、校正が…

初代京都駅絵葉書に「大正初期」と記載している。(126頁)
二代目京都駅絵葉書には「明治後期」との記載。(127頁)
初代京都駅絵葉書には京電が写っているので、
単純な取り違えミスと思う…。


2011年10月26日
久し振りにジュンク堂へ行った。
欠陥書籍はどうなっているか気になったが、
予想通り、非常に多数並べられていた。
改訂版を出した様子も見られない。
「頬かむり」という言葉がピタリと当てはまる。


2011年10月27日
「祇園甲部歌舞練場」だが、「以前は「女紅場(にょこば)」と呼ばれていた」
というのは本当だろうか。(欠陥書籍=『京都今昔歩く地図帖』16頁)
(「にょこば」という誤植は御愛嬌)
どの資料によっているのだろう。
今のところ見当たらない。
何か古本で、すごい資料を生田・井上(あるいは学研)は持っているのかもしれない。
(だったらすみません)

都をどりの歴史を述べたところでは、
「明治6(1873)年からは新設された歌舞練場で開催」(17頁)とも書かれている。
こちらは、正しい記述、と思う。
(ここまで記載内容に嘘や不正確さがあると正しいものも疑わしく見えて来るから怖い)

祗園の女紅場は、1874年の4月からそう呼ばれたというのが定説らしい。
これは少し調べないと出てこない、が。
歌舞練場の方が「女紅場」という名称より早く出来ている。



古い歌舞練場の写真は『京の舞踊』(1963)に出ている。(45頁)
婦女職工引立会社(1873年3月11日設立らしい)の写真は、
『明治の京都』(1959)に出ている。(17枚目写真)
翌年4月に婦女職工引立会社は、女紅場へと改称したと、解説がある。
これは、解説によれば、「一力」の南側・西向きであったという。
とすれば花見小路には面していないと思う。
古い歌舞練場は、「花見小路西側」とも書かれ、花見小路に面していたように見える。

二つの写真は、比べると全く違う。

「以前は「女紅場(にょこば)」と呼ばれていた」「祇園甲部歌舞練場」
という説明は間違いではないでしょうか?


間違いだとして…

欠陥書籍を作り、しかも、大量に販売してしまうと、
こういう嘘や不正確さが、広まってしまう可能性が出て来る。
それも文化現象ではある。
ただ、社会への出版社や著者の責任はどうなることやら。
まあ、無責任ですよ、というのなら別に仕方ない。
学研はそういう会社だったということだろう。
(『科学』のファンとしては残念)
世の中は、事実とか矜持とかより金という立場もまたあるだろう。


間違いだとして…

どうしてこういう記述になったのかを推測してみよう。
おそらくこれもネットの安易な使い方に原因しているように見える。

「京都市歴史資料館 情報提供システム」というサイトがある。
そこに「歌舞練場跡記念碑」という項目がある。
島原の歌舞練場のことだが、
「島原歌舞練場は、当初は島原女紅場といい、芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え、
遊里を離れても仕事ができることを目指して、明治6年(1873)に設立された教育・勧業施設」
という説明がなされている。

おそらく欠陥書籍の著者は、この記載から、
祗園の歌舞練場に関しての説明を作ったのだろう。

もしこの推測が当たっているとすると…。

2011年11月1日
これは間違いとはいえないが、もっとどうにかしてよ、というもの。

この欠陥書籍(=『京都今昔歩く地図帖』学研パブリッシング)の18頁。

「京都の舞妓の美しさは明治・大正の文豪たちの作品によっても全国的に有名になっていった。
その代表的なものが大正時代に100万部を超えるベストセラーになった長田幹彦の『祗園夜話』で、
祗園の舞妓、芸妓たちから聞いた話をもとにして47の短編で構成した。」

こう書いてもいいかもしれないけど、不正確かつ不親切。

『祗園夜話』という本は、大正期に、少なくとも三回出ている。

第一は、1915年春に千章館から。
意匠は、小村雪岱のようだ。
図書館にあまり所蔵されておらず、未見。
三ヶ月余りで第7版まで出て、ベストセラー。

第二は、1918年初めあたりに新潮社から。
装丁は、竹久夢二らしい。
図書館にあまり所蔵されておらず、未見。
15編収録されている。
そのうち、「島原」「葵まつり」は谷崎潤一郎も登場のはず。
「祗園の舞妓、芸妓たちから聞いた話」とはいえない。

第三は、1925年晩秋あたりに春陽堂から。
装丁は竹久夢二。
図書館にあまり所蔵されておらず、未見。
上下2巻からなるようだ。


ただ、これは著者たちや編集者だけの責任ではない。
近代日本文学研究者の怠慢が一番大きい。
文学史の欠陥の反映。


2011年11月15日
学研ホールディングスのHPのトップ。
「重要なお知らせ」には「『京都今昔歩く地図帖』に関すること」は無い。


学研出版サイトのHPのトップからいける「お知らせ」には
「『精選 ブッダのことば』に関する、お詫びとお知らせ」は
2011年10月5日にアップされているが、
「『京都今昔歩く地図帖』に関する、お詫びとお知らせ」的なものはない。

同じサイトの『京都今昔歩く地図帖』を紹介したページ(商品紹介)にも
訂正とかはない。


どうなっているのだろう。
こうなっているだけか。

2012年5月28日
先日東京の大書店で見てみたが、
特に訂正とか出していないようだ。
もちろんHRにもない。

こうして何事もなかったかのように過ぎて行く、
ということのようだ。
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