「二十歳の原点」と交通

愚華

2008年10月21日 12:43

高野悦子は、『二十歳の原点ノート』『二十歳の原点序章』『二十歳の原点』という3つの日記を残している。

生れたのは、1949年1月2日。
亡くなったのは、1969年6月24日未明。
自死である。

1967年4月に立命館大学文学部に入学。
2年と2ヶ月、帰省をのぞいて、京都に住んでいた。

はじめの「下宿」は、京都山科。
「日記」等では「青雲寮」とされているが、仮名であろう。
1968年4月に、下宿を嵐山にかえる。
1969年4月には、丸太町御前付近の下宿に引っ越す。

当時立命館大学文学部は、広小路にあった。
いま、京都府立文化芸術会館があるあたりである。
河原町には市電が走っていたので、山科からは、電車利用の場合、
京津線で三条京阪まで来て、三条大橋を渡り、三条河原町から市電で北向するというのが通常のルートだろう。

嵐山から、というのは難しい。
おそらく、いわゆる「嵐電」で四条大宮まで出て市電に乗り換えるか、
阪急で嵐山から桂に出て、そこから四条河原町まで行き、市電に乗り換えるか、であろう。
(国鉄もありえるが、二条駅で降りてから広小路まではやや煩雑)
市電の四条線は、「京都市電物語」の年表では、1972年1月廃線であるから、
高野悦子は、十分利用できた。

丸太町御前からは、難しくない。自転車も利用したようだが、公共交通機関なら、市電丸太町線で行けばいい。
河原町丸太町から広小路校舎まではそんなに遠くないから、歩いても大丈夫。
もちろん河原町線を利用できた。

『二十歳の原点』の都市的基盤は、「市電」だったのでは、と思ってします。

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