漱石と京都

愚華

2008年09月02日 16:15

河野仁昭の『京都の明治文学』(白川書院、2007年)は、
大変いい本で、しっかり勉強するべき内容なのだが、
いかんせん、面白くない。
読んでいる私が「愚」であるというのが最大原因だが、
明治京都に埋もれていた詩人歌人がいまいちなのだ。
しかも「詩」であり「短歌・歌」であり、この形式、
黙読・文学としての面白味に欠ける、と感じてしまう。
音読・文学としては良い、たぶん、と、思うが、
何しろ音読などする暇はない。

というわけで、『京都の明治文学』は精読出来ない、残念であるが。

だがしかし、河野の調べる力はすさまじい。
調べた内容は、たぶん信頼にたる。
となれば、『京都の明治文学』は、
愚かな私にとって、少なくとも、何かを調べる上で、重要な典拠となる、と思う。


まあ、そんなわけで、『京都の明治文学』を使って、京都と漱石を整理整頓しておきますか。



まず、漱石が京都をはじめて訪問したのは、1892年(明治25年)7月8日から10日まで。
帝国大学文科大学生のときで、正岡子規と二人連れであった。

二度目の京都訪問は、1907年(明治40年)3月28日から、4月11日まで。
11日の午後8時20分発の汽車で東京へ帰っている。
4月9日から11日まで、『大阪朝日新聞』に「京に着ける夕」が連載された。
この漱石の二度目の京都訪問時、高浜虚子も漱石と京都で遊んだ。
4月10日から11日までのことである。虚子は「斑鳩物語」の取材に奈良へ行こうとして
漱石がいるので、京都によったのだ。
虚子が漱石の滞在宿をたずね、虚子の誘いで、二人で山端の平八茶屋で昼食をとった。
ここで、虚子の『風流懺法』が話題に上る。
虚子は、この3月8日に比叡山に登り、その体験を基に『風流懺法』を書いて、
『ホトトギス』の4月号に載っていたというわけである。
その後、二人は、のんびりと時を過ごしてから、虚子のとまる萬屋へ行った。
そこで、夕食、風呂、その後、都踊を観ている。
そして、一力へゆき、舞妓と遊んで雑魚寝したのである。
漱石が雑魚寝、というのは、なかなか愉快。

三度目の京都訪問は、ふれられていない感じ。
ネットなどによれば、1909年(明治42年)10月ころ、二日くらい、という。
ただネット情報なので「屑」である可能性あり。

四度目は、1915年(大正4年)3月下旬から4月中旬までで、
津田青楓が静養に来るように誘ったからである。
このとき磯田多佳と親しくなっている

谷崎潤一郎の遊洛は、漱石の第三回目と第四回目上洛の間となる。

たぶん以上のことは知る人には常識と思われるが。

関連記事