『私の東京地図』と遭遇

愚華

2011年09月21日 16:10

本屋で新刊の文庫を見ていて驚いた。
佐多稲子の『私の東京地図』が出ていたのである。
講談社文芸文庫なので、文庫にしてはやたら高額だが、
読みたいと思って探していたから、買ってみた。

「講談社文芸文庫スタンダード」というシリーズの「006」である。
そこにある著書目録を見ると、「文庫」の欄に、
1989年に出た講談社文芸文庫版『私の東京地図』が記載されている。
それとは違うらしい。
違う点で、この記載からわかるのは、「作家案内」がなくなったこと。
「解説」がかつては奥野健だったが、今回は川本三郎になったこと。
前回なかったらしい「年譜」がついたこと。「年譜」は佐多稲子研究会が制作。
そして「著書目録」がついたこと、である。
本文に異同はないと思うが、「多少ふりがなを調整」はしたようだ。

『私の東京地図』は、一気に書かれた長編でも、定期的に連載された長編でもない。
いくつもの雑誌に短編として、1946年3月から1948年5月にかけて、発表された作品群を、
1949年3月に「私の東京地図」という題で絡めて、書籍化した作品(作品群)だ。
小説というよりは私小説、私小説というよりはエッセイ…か。

「版画」「橋にかかる夢」「下町」と読んだ。


「版画」には、「奥さんを女郎さんに売った」父の友人「松田」の母が、
「猫いらずを呑ん」で自死した後に、稲子が祖母と松田の家へ行くシーンが、
最後に書かれている。
稲子の眼に版画のように残像していたそのシーン。

「もう夕暮れで、吾妻橋のあたりは、仕事を終えて帰ってくる黒い人の姿であふれていた。
隅田川の水が鈍くに光っていた。橋ぎわの大きな広告塔で、仁丹のイルミネーション
明滅するたびにそのあたりが明るくなったり暗くなったりしていた。ヤマニバーの扉は
引っきりなしに開けたてされて、仕事着のままの客が出入りしている。」

この人々はサラリーマンではない、と思う。
洋服姿も非常に少なかったと想像される。
『私の東京地図』読了。(2011年9月25日)

後半に行くに従い緊張感が出てくる。
あるいは読むのが抵抗感に会う感じがする。
これは間違いなく「党」の問題と関係するだろう。

あの時代の社会運動への参加や共産党とのつながりは、
いま、なかなか理解できない構図だったと思う。
それがテキストに潜む緊張感や抵抗感となるのかなあ。
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