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2011年12月02日

「赤塚不二夫マンガ大学展」

今朝の京都新聞に載っており、ネット版でも報道されているが、
京都精華大学が、
「マンガ学科に日本初の「ギャグマンガコース」を新設」するらしい。
「笑い」を中心にするとも記事には書かれている。


これで思いだしたのは、京都国際マンガミュージアムで開催されている
「赤塚不二夫マンガ大学展」。(12月25日までとか)

この前、イングランドの知り合いが来たので「赤塚不二夫マンガ大学展」へ行った。
展示の方はあまり人がおらずじっくり見ることができたが、
「赤塚不二夫」の天才性≒大馬鹿性がよくわかる展示と解説。
イングランドからの方々もある種納得。
マンガのルールや形を壊すことで笑いをとるという革命性を解説していたが、
なるほどと了解できた。

いろいろな「シェ―」の展示も面白い。
これパフォーミングアートでもあったのだ、とハタと気づく。


難しいにしろ、赤塚不二夫級マンガ家が出てほしい。  


Posted by 愚華 at 10:15Comments(0)観る

2011年11月30日

錦市場/異教徒の晩餐/追想の殺人

最近錦を時々通る。
何となく感じるのは、「観光化」。
これを実証するためには、錦市場における各店舗の
内容形態の年次変化を押さえなければなるまい。

しかし、ミステリーを最近読んでいると、
そこで言及された「錦」を並べると、
何かが分かる可能性もあると思った。

北森鴻の『支那そば館の謎』(光文社文庫、2006)にある一編
「異教徒の晩餐」。
2002年春に雑誌に発表されている。
そこでの錦。

「錦市場 ―― 通称・錦 ―― は四条通に並行して延びる小路で、「京都市民の台所」ともいわれる。食材のみならず、おばんさいその他を扱う店屋が立ち並び、観光都市でない京都の一面を見ることができる場所として知られている。」(78頁)

ところで一転柏木圭一郎。
『京都祇園舞妓 追想の殺人』(小学館文庫、2009)。
2009年夏時点で、錦はこう描写される。

「狭い道の両側にぎっしりと店が建ち並ぶ『錦市場』は京都の台所と呼ばれている。プロアマ問わず、こだわりの食材を求めて多くの料理人が足を運んだ『錦市場』は近年、急激に観光化が進み、都人の足が遠のき始めている。アジア雑貨、ドラッグストア、たこ焼きの屋台など、およそ京都の台所とは無縁の店が派手な売り声を上げる。加えて最近では食材を商う店が軒先で素人料理を出すことも増えて来た。通りからも客が食べている姿が丸見えで、あまりみっともいいものではない。星井はそんな光景を見る度に眉を顰めているのだ。」(260頁)

(ここで出てくる「星野」は、柏木圭一郎の文庫書き下ろしミステリーシリーズの主人公。
小説内では、カメラマンで、探偵の役割を演じている。)


北森は、錦を「観光都市でない京都の一面を見ることができる場所」
と紹介できた。2002年のことだ。

柏木は、錦を「急激に観光化が進み、都人の足が遠のき始めている」ところ
とする。2009年のことだ。


この差、(あるいは、変化)愚かにもやや面白い。  続きを読む


Posted by 愚華 at 20:36Comments(0)読む

2011年11月26日

京都で殺人を楽しむ

京都を舞台にしたミステリイは、京都での殺人を楽しむ、なかなかハンディなアイテムである。

やはり山村美紗が有名であるが、2008年からは、柏木圭一郎によるシリーズが立ちあがった。最近までこのシリーズに気づいてもいなかったが、ちょっと手を出して見たところ、それなりにいける。


注意!! ↓―真犯人の記載あり―↓)



注意!! ↓―真犯人の記載あり―↓)

第一作は、小学館文庫に入っている『京都 大文字送り火 恩讐の殺意』だ。
葵祭りも終わったあとの京都が舞台。
小説内時間は、2008年6月はじめ(芒種あたりとなっている)ころから、
7月のはじめあたりまで。
(どうも6月4日から6月5日にかけて殺人がなされている)

殺されるのは、南禅寺近くのトレンド和食『料亭みなみ川』の主人南川和雄。
(殺人現場は、如意ヶ岳=大文字山。大の字あたりに緑のシートをかぶせた死体が…)

さらに、南川と京都の和食界で、方向の違いも含めて対立していた『菜心しまだ』の主人
嶋田優が、自分こそ南川を殺した犯人であると書き残して自死する。

これで事件は解決かと思いきや、実は、殺人の日、東京のホテルにおり
アリバイも成立したはずの『南川東京』の店長、南川雄一が実行者だった。
つまり、「父親殺し」である。

このミステリイのミステリイ的魅力はアリバイ崩し。
ここは、なかなか面白い。

ただ、ミステリイ的に言うと味音痴のたかり料理評論家山岡京三を
もっと引っ張ってほしかった。
あともう少し怪しい人物が欲しいところ。



極・特殊な注釈↓
『菜心しまだ』=「いま、京都で最も人気のある料理店…京野菜を主役に据え、客の目の前の竈で炊いたご飯を供する…」
『柳苑』(111頁~115頁)=カレーラーメンが…旨い=『柳園』  続きを読む


Posted by 愚華 at 14:57Comments(0)読む

2011年11月15日

芥川の書簡と京都

芥川龍之介から高浜虚子へ宛てた今まで知られていなかった書簡が見つかったらしい。

新聞で報道されている。

ネットで見てみると、「産経ニュース・ウエスト」のものが詳しかった。

1919年6月27日付の書簡。

内容的には、京都と二重に関係している。
一つは、京都で知人と会ったことが、冒頭に来ている。
この知人は誰か書いてはいない。恒藤恭だろうか。

その知人と虚子の小説「風流懺法」の話をしたとあるようだ。
登場人物のモデルが話題になったそうである。
「風流懺法」は、1907年4月に『ホトトギス』に発表された。
主人公の一人は比叡山の小僧の一念。
もう一人が祇園の舞妓の三千歳である。
おそらくこの二人のうちどちらかあるいは二人ともが話題になったのだろう。

芥川の俳句が、この手紙のメインであるが、
愚かにも冒頭での京都とのつながりが特に興味深かった。


芥川や、たぶん恒藤などに、小説「風流懺法」は、かなり影響を与えたのだろう。
そこも面白い。  


Posted by 愚華 at 13:58Comments(0)凡観

2011年11月04日

『如何なる星の下に』でB級グルメ

つい先ごろ『私の東京地図』(佐多稲子)が、新装版で文庫化され、
すごく喜んだのだが、今度は高見順である。
高見の戦前の長編、『如何なる星の下に』が、講談社学芸文庫で出版された。

やはり高額。
この値段は何とかしてほしい。280頁強で、1400円。
うーーんん。


物語は、1938年の日本。舞台は浅草。
1938年10月頃から1939年1月頃まで、である。
それが小説内時間と思う。

主人公は、小説家の倉橋。
倉橋は、山の手の大森にどうも家を持っている。
そこに家族などがいるのかどうか、あいまい。

この倉橋が、軽芝居と漫才とレビューが盛んな浅草を漂う。
その物語だ。
倉橋の、レビューダンサー小柳雅子への純情が、小説の軸だ。

楽しいのは、当時の食べ物屋が出て来ること。
嬉しいことに「『如何なる星の下に』小説案内地図」がついている。

みると、市電の「田原町」電亭近くに「仁丹塔」がある。
倉橋のアパートは、「田原町」の近く。三階に部屋があるせいか、「仁丹塔」が見えるらしい。

1938年11月3日、午後3時頃。

「…私はアパートの窓から外を眺めていた。田原町の仁丹の広告灯が、――
電気のつかない昼間の広告灯というのは、さらでだにしょんぼりとしたものだが、
冷たい雨にずぶ濡れになって侘びしく情けなさそうに立っているのが、私の眼に
入り、屋根ばかりしか見えない窓外の索寞とした景色の中で、特に私の眼を
ひくものといったら、それだけなのであった。」

電気のついていない「仁丹広告灯」の記述。
侘びしさを際立たせる巧みな筆致のような感じがする。


年表をみると、この日、近衛首相が、東亜新秩序建設を声明した
いわゆる「第2次近衛声明」を出したようだ。

73年前のことだ、と今気付いた。  続きを読む
タグ :高見順


Posted by 愚華 at 19:32Comments(0)読む

2011年10月27日

スタバ京都1号店

京都のスタバの1号店はどこなのだろうか。

マクドの京都1号店が気になったついでに、これも気になっていた。

スターバックスファンのサイト「Starbucks Links」には、
「スターバックスの歴史・沿革」というページがあり、
そこに京都1号店についての情報がある。
http://www.geocities.jp/starbuckslinks/company/history.htm

1999年6月18日に
「京都県1号店・京都四条通ヤサカビル店オープン」
とのこと。
「京都県」はなかなかのものだ。「大阪都」とタイを張りそう。

おそらくスタバファンと思われる人のブログ
「帰ってきたスタバ番長」でも
「「京都1号店」の「京都四条通ヤサカビル店」」
とある。

スタバの公式の記録とか、新聞記事が欲しいところだ。

残念ながらスターバックスのHPの「沿革」には情報がない。
ただそこで分かったのは、関西への進出は大阪がまず第一。
1998年11月にオープンした「梅田HEP FIVE店」である、という。  


Posted by 愚華 at 14:25Comments(0)凡観

2011年10月23日

マクド京都2号店

京都でのマクド1号店は、藤井大丸店であった。
はっきりしていなかったのだが、1972年7月1日に開店したようだ。
関西、あるいは、西日本へ、マクドナルドが進出した第一号だった。

72年7月13日付のとある新聞に、こうある。

「外資系ハンバーガーチェインの日本マクドナルド…が
関西進出の拠点に選んだのは京都…」
1号店は
「藤井大丸百貨店前店舗」
「続いて」
「中京区に新築されたセブンツービル一階に十六日
第二店を開店する」

この「新築されたセブンツービル」というのが分からなかったのだが、
ネット内のブログから情報を得た。

「新京極シネラリーベ」のHPに「映画館の中」というスタッフブログがある。

2006年9月22日に、「新京極シネラリーベ」の歴史をまとめている。
引用=盗用しておこう。

「…
■新京極シネラリーベ
明治44年の大火後、現在地にM・パテー商会がパテー館を新築、もっぱら活動写真常設館であった。
大正5年、天活(天然色活動写真KK)の経営となり、次に大正9年、日活(日本活動写真KK)の系統となって、朝日館と命名、のち、昭和6年、マキノキネマ東活倶楽部、昭和13年に、国際映画劇場とそれぞれ改名、邦画、洋画を上映していた。
戦後、京極日活となり、昭和28年、京都弥生座と改称、昭和47年セブンツービルとして3F劇場が弥生座、地下劇場がテアトル72となり、その後統合されて京極弥生座に。
(以前弥生座の1Fにあったマクドナルドも昭和47年の開館当時からあったそうです。2Fはなんと蝋人形の館!)
そして平成18年2月、劇場を大改装し新京極シネラリーベに。
…」

「昭和47年セブンツービルとして3F劇場が弥生座、地下劇場がテアトル72」になった、
という記載と
「以前弥生座の1Fにあったマクドナルドも昭和47年の開館当時からあった」
という記載が
重要。


つまり、新京極・弥生座の一階にマクドナルド京都2号店=関西2号店があったわけだ。
二階に椅子テーブル席があったような感じもするがどうだろう。

日本マクドナルドの公式HPで店舗を検索しても、現在は新京極にマクドはない。
京都2号店はいつ姿を消したのだろうか?


新京極商店街HPストリーマップより(改変)  


Posted by 愚華 at 15:39Comments(1)探消

2011年10月17日

北山通「カフェ・ドジ」閉店(2011年12月31日)

北山通りに「カフェ・ドジ」というカフェがある。

1977年開店。35年の歴史を誇る。
ゆったりしたいす机。ぜいたくな空間。美味しいフードとドリンク。
世界的レベルのカフェといってもいいのでは、というところ。

川口葉子『京都カフェ散歩』(祥伝社、2009)では、「ドジ」を

「現代的カフェのスタイルの起源」の一つ

と位置づけている。


先日チキンカレーをいただいたが、
水色の三匹の犬」のシルエットが配されたフライヤーを見つけた。

悲しいお知らせである。

「この度、Cafe DOJI は12月31日をもちまして

一旦 クローズすることになりました.」

とあった。


また一つなくなるわけだ。


新しい空間は、バリ島か京都か琵琶湖に予定されている。
足と金のない愚かな者にとっては、京都の新空間を希望したい、
が…。  


Posted by 愚華 at 17:49Comments(0)探消

2011年10月12日

『京都今昔歩く地図帖』=欠陥書籍

最近学研から『京都今昔歩く地図帖』という本が出た。
ネットでは評判がいいらしいが、こんなひどい本は前代未聞である。
良心的出版社、良心的著者なら絶版にするのが普通では。

まあ、しかし、学研は、この本を売るために出しているようだし、
著者の井口悦男と生田誠も、校正くらいはしていて目は通して、
これでOKしたから、「良心的」ではないだろうなあ。

せめて、訂正本を出すのだろうか?
その時は初版のひどいのと換えてくれるのかなあ。
こっそりやるだろうから、取り換えは無理だろうと思う。
これ「落丁」や「乱丁」にはならないね。何に当たるのだろう。
(一応「欠陥書籍」という概念を作ってみた)



対外的に何かアピールするかなあ。
(事情を明らかにして、購入者へ謝罪、など)
学研という会社と、両著者の社会的信用問題と思うが…。


既にネットでも指摘があるが、104頁の「新京極」の写真。
説明は「江の島」である。驚愕、これには。
誰が編集者かわからないけど、能力疑う。


驚くのは、13頁。本文の始まりが12頁だから、出だし。
次のようにある。

「四条通、東大路(東山通り)に市電が走るのは、大正元(1912)年12月で、
昭和47(1972)年1月まで運行されていた。」

いきなりこんな不正確な解説か、と思ってしまった。
あとでわかるが、これは序の口に過ぎなかった。

本書の85頁には、「蒸気機関車」というコラムがあり、
かつての東海道線が今の東海道線と違っていて、
例えば山科駅も位置が違うから気をつけろよ、
当時の絵葉書のキャプションを信じ込んではいけない、
疑うことが必要だ、と絵葉書コレクターの蘊蓄と恫喝が書かれている。
しかし、両著者はその原則にのっとって、この本を書いたのだろうか。

京都の市電であるが、四条線は、1912年6月11日に、八坂神社のところまで、
開通している。たしかにその時は八坂神社前の東大路はまだ未開通。
同年の12月25日開通だ。
これを、
「四条通、東大路(東山通り)に市電が走るのは、大正元(1912)年12月」
と、表現していいものやら。読者・消費者をばかにしているか、
両著者が間違っているか(校正しないとか)、どっちかじゃないだろうか。

廃線についても同様。
四条線は、1972年1月22日に終了。
「祇園」を通っていた東山線は、最後まで残り、1978年9月30日廃線。
これを、
「四条通、東大路」の「市電」は「昭和47(1972)年1月まで運行されていた。」
と、表現していいものやら。読者は愚かで不正確もOKということか。


これもやや驚くが祇園のお茶屋の「一力」を、
「料亭の一力亭」と表現して正しいのだろうか。(14頁)
間違いとまではいかないだろうが、違和感は残る。

とまあ、こんな連続。いちいち挙げてたらきりがない。

絵葉書も現在の写真もこの本には載っていない「菊水レストラン」へ言及して、
「大正5(1916)年、アールデコ、スパニッシュなどの諸様式を取り入れた
洋館の西洋料理店「菊水館」が開店」
ともある。(74頁)
レストラン菊水のHPから、おそらくカットアンドペーストしただけだろう。
しかも、HPをきちんと読んでないから、アールデコ・スパニッシュ様式の
洋館の建ったのが1926年というのを落としている。
ひどすぎる。



「京都を訪れた夏目漱石は、円山公園の也阿弥ホテルに宿泊している」(50頁)
これは初耳だが、事実ではないはずで、だから初耳。
漱石の京都訪問で、也阿弥に宿泊可能性が零ではないのは、第1回の上洛。
子規と一緒だった。
この時は柊屋に泊ったと年譜などにはある。
「事実」の捏造か、単なる誤りか、新資料でも発見か。



『五番町夕霧楼』の舞台が上七軒と解説しているが(165頁)
だったら「題」が変わるでしょう。
両著者も編集担当も、ウィキさえ調べてないようで唖然とするばかり。



京都の書店では平積みされているところもある。
このまま、この不良品を売り続けるのか、注目に値する。  続きを読む


Posted by 愚華 at 17:09Comments(0)罵詈

2011年09月24日

変遷する京都のマクド

マクドナルドの日本における1号店は、1971年7月20日に三越銀座店1階にオープンした。
ハンバーガーは一個80円。
重要なのは、第一に、座席がなく立ち食い歩き食いを前提とした店だったこと。
第二に、「アメリカン」のイメージを前面に出したこと。
『朝日新聞』を見ると、「青い目のホステスを使」い「本場の味」を強調して宣伝している。
当時盛り上がっていた学生運動はこれをアメリカ帝国主義の先兵とは見なかったのか。

で、今年は、マクドナルド日本上陸40周年だったわけだ。

関西1号店は、1972年に出来ている。
京都の四条通、藤井大丸の1階。
写真を見るとここも座席がなかったように見える。
とすれば、来年マクドナルド関西進出40周年となる。


(オリジナルを加工。©不明)

新京極にも一軒かつてあったように思うが、記憶違いだろうか?

最近と思うが京都で2件閉店している。(2010年か?)
関西1号店が移転した、「四条寺町店」。
これまた長い歴史をもっていたと思う、「三条河原町店」。
http://portal.nifty.com/cs/mitaiwa/detail/101002135636/1.htm(「いしだ さん」による))

その前に同志社付近の店が無くなっている。

烏丸今出川南西角にあった店。モスに負けたのかも。

河原町今出川南西角の店。こちらはまだあった。
あまり利用していないから、愚かな頭からは消滅していたが…。


マクドナルドが京都のどこにあったか、ということも、
70年以降の京都を知る上では重要なことだ、と愚かにも思ったりするが…。  続きを読む


Posted by 愚華 at 19:27Comments(0)探消

2011年09月21日

『私の東京地図』と遭遇

本屋で新刊の文庫を見ていて驚いた。
佐多稲子の『私の東京地図』が出ていたのである。
講談社文芸文庫なので、文庫にしてはやたら高額だが、
読みたいと思って探していたから、買ってみた。

「講談社文芸文庫スタンダード」というシリーズの「006」である。
そこにある著書目録を見ると、「文庫」の欄に、
1989年に出た講談社文芸文庫版『私の東京地図』が記載されている。
それとは違うらしい。
違う点で、この記載からわかるのは、「作家案内」がなくなったこと。
「解説」がかつては奥野健だったが、今回は川本三郎になったこと。
前回なかったらしい「年譜」がついたこと。「年譜」は佐多稲子研究会が制作。
そして「著書目録」がついたこと、である。
本文に異同はないと思うが、「多少ふりがなを調整」はしたようだ。

『私の東京地図』は、一気に書かれた長編でも、定期的に連載された長編でもない。
いくつもの雑誌に短編として、1946年3月から1948年5月にかけて、発表された作品群を、
1949年3月に「私の東京地図」という題で絡めて、書籍化した作品(作品群)だ。
小説というよりは私小説、私小説というよりはエッセイ…か。

「版画」「橋にかかる夢」「下町」と読んだ。


「版画」には、「奥さんを女郎さんに売った」父の友人「松田」の母が、
「猫いらずを呑ん」で自死した後に、稲子が祖母と松田の家へ行くシーンが、
最後に書かれている。
稲子の眼に版画のように残像していたそのシーン。

「もう夕暮れで、吾妻橋のあたりは、仕事を終えて帰ってくる黒い人の姿であふれていた。
隅田川の水が鈍くに光っていた。橋ぎわの大きな広告塔で、仁丹のイルミネーション
明滅するたびにそのあたりが明るくなったり暗くなったりしていた。ヤマニバーの扉は
引っきりなしに開けたてされて、仕事着のままの客が出入りしている。」

この人々はサラリーマンではない、と思う。
洋服姿も非常に少なかったと想像される。  続きを読む
タグ :佐多稲子


Posted by 愚華 at 16:10Comments(0)読む

2011年09月18日

谷崎潤一郎の定宿

最近の『京都新聞』によると、「京都市東山区八坂鳥居前下ルの旅館「ぎおん森庄」」は、
谷崎潤一郎がかつて定宿として居たところという。
旧名は、「喜志元」だったようだが、2010年に「経営者が替わり」「宿」も「改修」されたようだ。

いつごろの定宿か、というのが愚かにも疑問。


通説では、谷崎の一回目の京都訪問は、1912年。
第二回目は、1921年。
第三回目は、1923年春。(谷崎自身は、22年とするが記憶違いとする説が有力)
第四回目は、短期の定住となる。1923年9月27日から、12月まで。約三カ月。
12月中に阪神間へ移る。1946年5月までは、基本的に阪神間に住居をもつ。
つまり四回目の京都訪問以降は、第何回と数えることは出来なくなった。
日記などでも出てこない限り回数の特定はできない。

1944年9月、「喜志元」を利用。(ネット上の小谷野敦による「谷崎潤一郎・詳細年譜」を参照)
敗戦後初の京都行きは、1945年10月。この時は「喜志元」に宿泊。(同上)
1946年3月16日から4月27日までは、京都の「喜志元」を宿としていたようだ。(同上)

1946年の5月からは京都に定住。1956年半ばまで。
1956年暮れに下鴨の家を売却。以降は上洛の時は千萬子宅に泊まる。つまりここからまた京都訪問という概念が登場する。
1965年7月30日死亡。



定宿と出来そうなのは、1924年あたりから、1946年夏前まで、となろうか。
44年、45年、46年の利用は確認できるようなので、
いつごろから「定宿」化したのか、面白い問題。



<蛇足>
「ぎおん森庄」は、この「定宿」を売りにしていくのだろう。
その手始めが、京都造形大教授などとのコラボ。  
タグ :谷崎潤一郎


Posted by 愚華 at 15:14Comments(0)愚見

2011年09月13日

谷崎潤一郎の宿

ほぼ5年前、『朝日新聞』に、谷崎潤一郎の書簡の発見と展示の記事が出た。
谷崎の初の京都訪問に関連する書簡であったので興味を持った。
しかし、あまり周辺を見ていなかった。

ということでちょっと見てみると…。


まず『朝日新聞』の記事で重要そうなところを抜いておくとこうなる。

「書簡は8月5日付で東京から京都の旅館「八千代」に出されたもの。当時、谷崎は文壇に出て3年の新人作家で、東京日日新聞に見聞記を書くため八千代に滞在していた。大阪・住吉に出かけた際に人力車から落ち、具合がよくならずに予定を切り上げて直接東京に戻った。
和紙に「停車場附近(ふきん)尓(に)て人力車よりマッサカサマ尓叩(たた)き落とされ脳をひどく打ちて汽車はおろか歩くことかなわず(中略)何しろ旅先の事とて心細さ限りなく」などと無断帰京の顛末(てんまつ)を細かに記している。」(2006年7月初め)

同じ頃の『読売新聞』には、少し別の情報が載っていた。重要部分を抜いておく。

「書簡は京都の木屋町仏光寺にあった旅館「八千代」あてで、大正元年8月5日の消印がある。…(略)…谷崎は、大阪・住吉を見物に行った時に人力車から落ちて頭を打ち、旅館に断らずに東京へ引き揚げた。書簡では旅館にこの事情を説明し、不在中に着いた手紙や小包の処置を頼んでいる。
縦18センチ、横237センチの横長の和紙に毛筆で書かれ、封筒は黄ばんでいるものの、中の保存状態はきわめて良い。書簡を調べた同館副館長のたつみ都志・武庫川女子大教授は、「筆跡や、当時の谷崎の拠点だった東京・京橋の旅館『真鶴館』から出されたことからみて、直筆に違いない」としている。」(2006年6月末)


これで「八千代」が木屋町仏光寺にあったことが分かる。
ほかの資料を見ると、「東木屋町松原上ル」にも「八千代」があった。
おそらく同じもの。
旅館とされてきたが、「貸座敷」「席貸」のようだ。「旅館」も兼業なのだろう。
とすると、仏光寺より南で松原より北。
対岸が見えていたので、加茂川の西岸に面しているはず。
これでおよその地域が特定できた。



「京都市街全図」1913より


*「京電」の二つの駅の間、線路より右、ということか。  
タグ :谷崎潤一郎


Posted by 愚華 at 16:14Comments(0)探消

2011年09月01日

「zipangu / ジパング展」

昨日、たまたま大阪へ行った。

時間が空いたので、大阪ステーションシティへ行ってみた。
京都の新ステーションが開業した時ほどの衝撃力はない。
京都の場合、「景観」への「冒涜」というパワーがあったことと、
空間的遊びがあることによるのでは。
京都駅ビルの場合、「門」というコンセプトがあることも効いている。


暑かったので、大阪高島屋で開かれている、「zipangu / ジパング展」へいった。

全体的に面白いものが多かった。



(「zipangu / ジパング展 公式blog」のイメージを基礎に二次創作)


特に私的にポイントが高かったのは…

会田誠の「大山椒魚」(2003)
池田学の「ブッダ」(2000)
風間サチコの「大日本防空戦士・2670」(2009)
熊澤未来子の「侵食」(2009)
指江昌克の「Moon」(2009)
龍門藍の「Mélange」(2010)


「大山椒魚」と「侵食」には、非実在青少年/「少女」が浮遊している。
「Moon」は「侵食」とともに、ポストフクシマを予示しながら、先進日本を表象する。
「ブッダ」は「Moon」とともに、微細な宇宙と素時空を構成する。
「大日本防空戦士・2670」は「ブッダ」とともに、巨神兵/大魔神希求をリスクする。
「Mélange」は「大日本防空戦士・2670」とともに、カルチャー変態に着目した。
サンショウウオと京都タワーは、ペニスの象徴だろう。
そのサンショウウオが隠れるはずの「少女」の間は閉ざされたままだった。

そんな愚想を妄想可能だ。


ただ、これは美術として何なのか、ということ。そこが…
職人的な表現技術の面白さと奇相・奇想はわかるが…。  


Posted by 愚華 at 15:44Comments(0)観る

2011年08月18日

蕎麦屋で「水なす」

「水なす」という生で食べることが出来る「ナス」を始めていただいたのは、
味禅で、であった。
まだ、烏丸通に面して、地下に店があった時である。
もしかすると前世紀のことかもしれない。

「水なす」は美味しいということと、泉州でとれるということを学んだ。






この「水なす」、最近東京の蕎麦屋でも、酒のつまみとしておいてある。
これには驚いた。ここ数年の現象ともいうが、定かではない。


先日、永田町の蕎麦屋、「黒澤」へ行った。
「水なす」がある。
もちろんトライしてみる。
矢張り美味しい。
日本酒にも合う。
切り方に特徴がある様に思った。
もしかすると、少し浅くつけてあったかもしれない。

先日、新橋の蕎麦屋、「竹泉」へ行った。
ここにも「水なす」があった。
もちろんいただいてみた。
さわやかである。
升酒にあった。
こちらの切り方は普通の輪切り。半分にしての。
少し塩水につけているかもしれない。

東京の蕎麦屋が早いのか、味禅が早いのか分からない。
でも、京都・関西系の、蕎麦屋のメニューが東漸しているのでは、
という妄想を愚かにももってしまった。


ちなみに「黒澤」

溜池山王駅、5番出口より徒歩1分

「竹泉」

内幸町駅、A4番出口から直ぐ


いずれも「花巻蕎麦」はなかったように思うが…。  続きを読む

Posted by 愚華 at 17:07Comments(0)蕎麦

2011年08月11日

銭湯奇人

銭湯では、オヤッと思う奇妙な人と遭遇する場合がある。


いまはもうない京都の初音湯でのこと。

前にも書いているが、ここは、まず水が非常にいい。
湯船からあふれるお湯。
地下深くからくみ上げられた水による水風呂。
加えて、サウナも熱い。

新しく作られたらしいサウナの床や座るベンチは、木の香りがする木製のもの。
銀閣寺近くにあった銀寿司で、初めて冷の菊正宗を、
新しい一合升で飲んだ記憶がよみがえる。


ある時、そのサウナの扉を開けてややギョッとした。
サウナを、男が走っているのである。
扉側に背中を向け、裸でランニングしていた。
もちろん、京都の銭湯に付属しているサウナは狭い。
そこでは「走る」という概念はほとんど生じる余地がない。
初音湯の場合、サウナ室の両側に、ベンチ状に続く座る部分の間に、
およそ1メートル幅の通路がある。
ベンチ両側に向かい合って人が座ると、通るのに神経を使うくらいだ。
長さはおよそ4メートル。
つまりベンチもこの長さ。一列に座ると最大5人くらいだった。



この「通路」をその男が走っているのだから驚く。
もちろん「シャドウランニング」だが。

男も驚いたらしく、すぐにベンチに上がり、屈伸柔軟運動に切り替えた。
一人で3人分のベンチを占有して。
そして、私がサウナにいる間はずっとその運動で汗を流していた。

その日は、私とサウナランナーを含めて3、4人しか客がいなかった。
そんなこともあって、その男はサウナランナーと化したのだろう。
以前、もう少し混んでいた時も、メインの浴場で、
体操・運動じみた動きをその男が見せていたのを思い出した。


銭湯を出て、つれに女湯でそうした客がいるかを聞いたが、
一度も出会ったはいないという。
かなりレアケースである。

その後何回かランナーを見たが、ランニングしているのにはいきあたらないうちに、
初音湯は閉湯。
いま彼はどこの銭湯で走っているのだろうか。
快適に「シャドウランニング」できるサウナを発見できているだろうか。  続きを読む

Posted by 愚華 at 15:18Comments(0)凡観

2011年07月25日

ルシアン・フロイトと猫

オンラインのニュースなどで報じられているが、ルシアン・フロイトが7月20日に死亡した。

ルシアン・フロイトは、1922年ベルリンで生まれている。
1933年にはロンドンへ。

ナチスが政権をとり、ユダヤ人排除政策が明確になっていったからであろう。
ナチスがドイツ議会で第一党になったのは、1932年の7月である。
1933年1月にはヒトラーがドイツの首相に就任した。
3月には共産党が非合法化され、7月のナチスによる独裁が成立、10月には国際連盟を脱退した。
どの段階でロンドンへ逃げたのだろうか?

1938年3月には、ナチスドイツはオーストリアに侵攻し、すぐに併合した。
ルシアンの祖父である、ジークムント・フロイトは、そのため、
パリを経て、ロンドンへ亡命した。(6月のこと)
ルシアンの家族が居たということもロンドンを選んだ理由かもしれない。

ジークムント・フロイトが亡くなるのは1939年9月。
第二次世界大戦勃発直後である。


ルシアン・フロイトのかなり大規模な展覧会は、2002年6月から8月まで
テイトブリテンで開かれた。(Lucian Freud at Tate Britain)
たまたま、ロンドンで観たが、愚かにもその時までルシアンのことを知らなかったし、
ジークムント・フロイトの孫とも気づかなかった。
しかし、展覧会には圧倒された。
特に今世紀に入ってからの「肉塊」を描いた巨大な絵は観る者に迫ってくる。
その迫力たるや、本当にすごい。
その展覧会の記録などはいかにある。

http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20080615134822/http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/freud/

その時はみて居ないと思うが、1947年に「子猫と少女」という絵を描いている。
その一部。




フランシス・ベーコンとは友人関係。
ベーコンのものは、パリで見て変、と思い、はじめ好きではなかったが、
彼の肖像画展を見て考えががらりと変わった。


ベーコンとフロイトがどう位置づけられるのか、興味がある。  続きを読む


Posted by 愚華 at 17:36Comments(0)凡観

2011年07月19日

原田芳雄とその映画

原田芳雄が死んだ。
ネットで調べたところ、かなり病んでいたらしい。
それにしても腸閉塞と肺炎というのはどういうことなのか。
少し不思議である。

彼が出演したもので観たことがあるものを調べつつ思い返してみた。

「八月の濡れた砂」1971年、藤田敏八監督である。

最高傑作と思われるのは、「竜馬暗殺」1974年、黒木和雄監督である。
中岡慎太郎を石橋蓮司が、右太を松田優作が、妙を桃井かおりが演じた。

寺山修司監督の「田園に死す」1974年、にも出演していた。
八千草薫や三上寛が出ている。春川ますみの空気女が印象的。

黒木和雄監督の「祭りの準備」1975年、にも。
竹下景子のほぼデビュー作だったと思う。

「悲愁物語」1977年、鈴木清順監督。
たしか最後がのシーンだったのでは…。

「原子力戦争 Lost Love」1978年、黒木和雄監督。
低予算映画だったのだろう、マイクが見えているシーンがあったが、そのまま使っていた。
原作は、田原総一朗である。ロケ地はフクシマ

「オレンジロード急行」1978年、大森一樹監督。
嵐寛寿郎と岡田嘉子が出演している。
大森にとっては、「暗くなるまで待てない!」 の次の作。
プガジャ」82号(1978年4月号)では、「「オレンジロード急行」関西ロケ」が特集されていた。
そこには大森と打ち合わせる原田の写真も掲載されている。

「ツィゴイネルワイゼン」1980年、鈴木清順監督。
その幻想性が心地よかった。

「ヒポクラテスたち」1980年、大森一樹監督。
これはホントに京都映画である。
もう一度観たい。

「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」1985年、森崎東監督。
横山幸子も出演。
これはどこでみたのだろうか?  続きを読む


Posted by 愚華 at 18:23Comments(2)プ蛾蛇

2011年07月18日

夏はレーメンだろう

最近、「みそのばし 中華のサカイ」のレーメンに凝っている。



メニューでは「冷麺」と表記されている。

ハム冷麺と焼豚冷麺があるが、
愚かにも、お安いハム冷麺のファン。
辛子は付いていない。
テーブルにも無いから、これは辛子なしで食べるのが本当なのだろう。
かなり美味い。

一度辛子をつけて食べたい欲望はある。

餃子もいい。値段も安いし。


先日一度冷麺が売り切れた状況に遭遇した。
残念だったが、さすが、とも思った。


ホームページは以下の所↓

http://www2.ocn.ne.jp/~m-sakai/
  

Posted by 愚華 at 13:10Comments(0)蕎麦

2011年07月04日

一袋の駄菓子

佐多稲子の「一袋の駄菓子」を読んだ。
なかなか凄い、なかなか出来た小説である。
なぜか分からないが、いわゆる「研究」は無いようだ。

文庫本の解説によれば、1935年に『文芸春秋』6月号に発表された。
いまから振り返るとわかるが、まだ敗戦まで10年以上もある、という時である。


自筆年譜によれば、この35年5月に戸塚署に検挙され、2ケ月間拘留されている。
検挙の理由は文化運動に関係したこと、らしい。
5月1日には、戦前最後のメーデーが開催されている。
佐多稲子は参加したのだろうか?
この年のはじめ頃には、天皇機関説が「問題化」してもいる。


焦点化する主人公というものが設定されていない。
強いて主人公は誰かといえば、東京の下町工業地帯の貧乏長屋に住む
小学校六年生の兵次であろうか。
この小説は、工業地帯に貧乏長屋の数ヶ月くらいの物語である。
おそらく1月から3月あたりまでだ。
貧乏長屋の生活と、兵次とその友人の義男の小学校卒業後の問題が、
重なる形で記述されている。
記述は淡々として、それほど深みのある心理の動きは示されていない。
しかし、貧乏長屋と工場との点描から、そして、貧乏長屋で起きる「事件」から、
当時の時代と社会が見えてくる。

兵次の家は子供が少ない。どうも兵次と弟だけのように読める。
これはどうしてか。
山本宣治などが関わった、労働者階級への産児調節の知識を、
兵次の両親が心得ていた、ということを暗示するのではないだろうか。
兵次はそのために、中学校へ行ける可能性があることになっている。

「一袋の駄菓子」、という題は、最後の、小工場主の妻の葬式シーンに由来する。
葬式での放鳥の代わりとして、駄菓子を詰め合わせた小さな紙包みを、
霊柩車を見送りに来た近所の貧乏長屋の子供たちや住人に放つのだ。
このシーンは、背景となっているであろう工場地帯の煙突群と共に、
映像的イメージを喚起する。
戦前のプロレタリア文学の系譜に属する小説なのにもかかわらず、
愚かにも喚起されたイメージは、寺山修司的ものだった。  
タグ :佐多稲子


Posted by 愚華 at 13:57Comments(0)読む