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2009年03月04日

川と水をめぐる神話

吉井勇の『草珊瑚』を借りた。「自歌自釈」とついている。

編集されたのは、大正7年。その時に「自釈」もおこなった。1918年のことである。
発行は、翌1919年の1月1日。発行所は東雲堂書店。

「自歌」が17にカテゴライズされ(つまり17章構成)、その第六が、「祗園の風流」である。

「六 祗園の風流」の最初の歌は、例のもの。

「かにかくに祗園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」

「自釈」はこうなされている。

「今から七八年前のことである。私は不図京が恋しくなつて、唯一人旅に出懸けたことがあつた。それは春から夏へ移らうとしてゐる時分で、円山へ往つても加茂へ往つても悩ましいやうな新緑が、蠱惑するやうに私に迫つた。さうして私はまた新たに狂ほしいやうな旅の愁を感じなければならなかつたのであつた。
しかしこの時唯一つ私の旅の愁を慰めて呉れるものに、あの加茂川のせせらぎの音があつたことを私は如何しても忘れることが出来ない。河岸の宿の仇し寝に、枕に通ふ水の音を聴いて、私は何を夢見たであらう。今ではもうその夜の記憶も朧ろげになつてゐるけれども私の暁の夢を照らしてゐた蘭灯の影だけは、猶鮮かに私の目に残つてゐる。」

これを素直の読むと、この時点(1918)での「自釈」では、「枕の下を」「ながるる」「水」の音は、加茂川の水の音となる。よく言われるように、白川の水の音ではない。
とすると、この歌は、祗園・新橋の「大友」で歌われたものとされがちだが、そうではないことになるまいか。
もしも「大友」での経験がこの歌を生んだのだとするならば、吉井はそのことを「自釈」に書くのではないか。他の「自釈」を読むとそういう気がしてくる。

一つの推測をかいておこう。
初めは、加茂川の流れの音を聴き、それを歌った(1910)。
1918年時点では、この歌は、おそらく白川とも「大友」とも結びついていない。
その後、祗園や、祗園のサロン的存在「大友」、そのサロンの中心磯田多佳、そして、この歌が有名になる。
そうした中で、1946年、谷崎潤一郎が、「磯田多佳女のこと」を書く。
そこにはこうある。

「あの吉井勇の歌で名高い新橋の大友の家」

この時点で、「枕の下を」「ながるる」「水」の音は白川の水の音という「神話」が形成されたのではあるまいか。そして、この「神話」は、「事実」「史実」として流通している。
(碑の建立と祭の創設は「神話」を物質化・制度化した。(1955年))
谷崎の「磯田多佳女のこと」も入っている中公文庫版『月と狂言師』の「解説」は千葉俊二が書いている。
千葉は、資料をかなり押さえて論じる学者である。
『谷崎先生の書簡』(増補改訂版)でも、その本領が発揮されている。
特に、谷崎が戦前に出した私家版『細雪上巻』と現行のテキストの違いなどを丁寧にあたっている。
しかし、中公文庫版『月と狂言師』の「解説」では、こういう。

「吉井勇の「かにかくに…(略)…」という歌で名高い、谷崎自身、青春の思い出と密接に結びついた、多佳女の住んでいた白川に臨んだ大友の屋敷」

千葉でさえ、この谷崎によって仕掛けられた「罠」にはまって、「神話」を「史実」としてしまっている。
もちろん『谷崎潤一郎必携』もこの「神話」を神話として認知できていない。


……と愚かにも「幻想」してしまった。



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Posted by 愚華 at 17:30│Comments(0)読む
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