京つう

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2009年02月25日

洛陽と夢二

竹久夢二も京都とは縁が深い。

ただ、竹久夢二の伝記としてどれが定番なのかがよくわからず、まだ、夢二と京都との関係の概要を把握できていない。

とはいえ、分かるのは、1910年の4月に京都を訪れているということ。1910年であるから、明治43年のことだ。
このとき彼は、京都からさらに金沢に足をのばし、ふたたび京都に帰り、そこから東京に戻ったようだ。5月末らしい。
もしかすると、これがはじめての京都訪問かもしれない。

この1910年の5月には、吉井勇が京都に訪れている。(たぶん3回目の入洛)
自筆年譜によると、茅野蕭々の家に泊まったという。そして、このとき岡本橘仙、金子竹次郎、鈴木鼓村などとの交友が始まる。たぶん、茅野蕭々の紹介だろう。
さらに、岡本橘仙などに導かれて、祗園で遊んだようだ。
こうして吉井は祗園とつながりを持ち、その時の歌がスバルに発表され、その後の彼の生き方を深く規定した。

さて、夢二である。夢二も、同時期、京都の地にいたが、このときの彼の関心はどちらかといえば金沢にあったようだ。おそらく、夢二と勇は、すれ違ってもいまい。ただ、もしかするともうこの時点で二人は知り合いだったかもしれないが。

夢二が、金沢に惹かれたのは、当時の妻たまきの故郷が金沢だったからのようだ。

この次に京都へ夢二がくるのは、1912年ではないだろうか。8月の読売新聞に、夢二京都に滞在中という消息が載っている。
このときは、6月末までは、谷崎潤一郎が京都をはじめ関西にいた。また、4月から、同じく新進作家として注目されていた、長田幹彦もきており、まだ滞在中だった。

そして、この年の11月に、岡崎にある京都府立図書館で第一回の竹久夢二の作品展が行われた。
大好評であったことは、長く伝えられている。


面白いのは、夢二と谷崎にはあまり接点らしきものがないのに、長田幹彦とは、かなりのつながりがあるということだ。

2011年12月6日

ところで、最近まで、上で言及した長田幹彦が、夢二日記を編集したと誤解していた。
ところが、長田幹雄による編集だった。
思い込みというものの恐ろしさは、かなりのもの。

自分で自分を罵倒せざるを得ない。


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Posted by 愚華 at 21:07│Comments(0)温故
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