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2009年01月31日

100年前の芸術と京都

野田宇太郎の「関西文学散歩」からメモをとっていこう。

野田によると近代文学と祗園の関係が生じるのは、明治末年から大正初期ころのことという。
重要な人物は、吉井勇、長田幹彦、谷崎潤一郎。みな耽美派で、江戸っ子だった、としている。

「彼等三人のなかから、勇は『祗園歌集』や『祗園双紙』の歌集を出し、幹彦は『祗園夜話』その他の小説を書いて、それ以来たちまち祗園の名は近代文学の上にクローズアップされた。」(31-32)

ただ、この前に、虚子の小説、そして、相前後して漱石の作品が京都を取り上げるということもポイント。また、「京都」ということでは、それより前の、『乱れ髪』も落せない。

虚子の「風流懺法」は、1907年の『ホトトギス』4月号に発表された。
漱石の「虞美人草」は、1907年6月23日から、10月29日まで朝日新聞に連載された。

ところで、調べてみると、『祗園歌集』は、1915年にでている。大正4年。装丁は竹久夢二。
祗園双紙』は1917年出版。大正6年のことだ。
祗園夜話』はなかなか難しい。図書館での所蔵がほとんど見当たらない。かなりのベストセラーだったにもかかわらずないのはどうしてか。ただ読売新聞の広告などから判断すると、1915年の春には出版されている。出版社は、千草館。装丁は小村雪岱。
コラボレーションもある。
1916年9月に、吉井勇は、中沢弘光の絵と長田幹彦の小説との合著である『舞姿』を阿蘭陀書房より出版している。
1918年には、新潮社が『祗園夜話』の縮刷版を出していることが、読売新聞の広告で分かる。このときは装丁はまたも竹久夢二だ。

面白いことに土田麦僊が、最初の舞妓の大作「三人の舞妓」を文展に出品したのは、1916年である。このときの第10回文展は、10月14日から11月20日まで開かれた。ここにある種の時代の空気を読んでもいいのではないだろうか。
ちなみに世界はというと、1914年に第一次世界大戦が始まり、1918年までつづく。



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Posted by 愚華 at 19:56│Comments(0)温故
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