2008年09月02日
漱石と京都
河野仁昭の『京都の明治文学』(白川書院、2007年)は、
大変いい本で、しっかり勉強するべき内容なのだが、
いかんせん、面白くない。
読んでいる私が「愚」であるというのが最大原因だが、
明治京都に埋もれていた詩人歌人がいまいちなのだ。
しかも「詩」であり「短歌・歌」であり、この形式、
黙読・文学としての面白味に欠ける、と感じてしまう。
音読・文学としては良い、たぶん、と、思うが、
何しろ音読などする暇はない。
というわけで、『京都の明治文学』は精読出来ない、残念であるが。
だがしかし、河野の調べる力はすさまじい。
調べた内容は、たぶん信頼にたる。
となれば、『京都の明治文学』は、
愚かな私にとって、少なくとも、何かを調べる上で、重要な典拠となる、と思う。
まあ、そんなわけで、『京都の明治文学』を使って、京都と漱石を整理整頓しておきますか。
↓
まず、漱石が京都をはじめて訪問したのは、1892年(明治25年)7月8日から10日まで。
帝国大学文科大学生のときで、正岡子規と二人連れであった。
二度目の京都訪問は、1907年(明治40年)3月28日から、4月11日まで。
11日の午後8時20分発の汽車で東京へ帰っている。
4月9日から11日まで、『大阪朝日新聞』に「京に着ける夕」が連載された。
この漱石の二度目の京都訪問時、高浜虚子も漱石と京都で遊んだ。
4月10日から11日までのことである。虚子は「斑鳩物語」の取材に奈良へ行こうとして
漱石がいるので、京都によったのだ。
虚子が漱石の滞在宿をたずね、虚子の誘いで、二人で山端の平八茶屋で昼食をとった。
ここで、虚子の『風流懺法』が話題に上る。
虚子は、この3月8日に比叡山に登り、その体験を基に『風流懺法』を書いて、
『ホトトギス』の4月号に載っていたというわけである。
その後、二人は、のんびりと時を過ごしてから、虚子のとまる萬屋へ行った。
そこで、夕食、風呂、その後、都踊を観ている。
そして、一力へゆき、舞妓と遊んで雑魚寝したのである。
漱石が雑魚寝、というのは、なかなか愉快。
三度目の京都訪問は、ふれられていない感じ。
ネットなどによれば、1909年(明治42年)10月ころ、二日くらい、という。
ただネット情報なので「屑」である可能性あり。
四度目は、1915年(大正4年)3月下旬から4月中旬までで、
津田青楓が静養に来るように誘ったからである。
このとき磯田多佳と親しくなっている
谷崎潤一郎の遊洛は、漱石の第三回目と第四回目上洛の間となる。
たぶん以上のことは知る人には常識と思われるが。
大変いい本で、しっかり勉強するべき内容なのだが、
いかんせん、面白くない。
読んでいる私が「愚」であるというのが最大原因だが、
明治京都に埋もれていた詩人歌人がいまいちなのだ。
しかも「詩」であり「短歌・歌」であり、この形式、
黙読・文学としての面白味に欠ける、と感じてしまう。
音読・文学としては良い、たぶん、と、思うが、
何しろ音読などする暇はない。
というわけで、『京都の明治文学』は精読出来ない、残念であるが。
だがしかし、河野の調べる力はすさまじい。
調べた内容は、たぶん信頼にたる。
となれば、『京都の明治文学』は、
愚かな私にとって、少なくとも、何かを調べる上で、重要な典拠となる、と思う。
まあ、そんなわけで、『京都の明治文学』を使って、京都と漱石を整理整頓しておきますか。
↓
まず、漱石が京都をはじめて訪問したのは、1892年(明治25年)7月8日から10日まで。
帝国大学文科大学生のときで、正岡子規と二人連れであった。
二度目の京都訪問は、1907年(明治40年)3月28日から、4月11日まで。
11日の午後8時20分発の汽車で東京へ帰っている。
4月9日から11日まで、『大阪朝日新聞』に「京に着ける夕」が連載された。
この漱石の二度目の京都訪問時、高浜虚子も漱石と京都で遊んだ。
4月10日から11日までのことである。虚子は「斑鳩物語」の取材に奈良へ行こうとして
漱石がいるので、京都によったのだ。
虚子が漱石の滞在宿をたずね、虚子の誘いで、二人で山端の平八茶屋で昼食をとった。
ここで、虚子の『風流懺法』が話題に上る。
虚子は、この3月8日に比叡山に登り、その体験を基に『風流懺法』を書いて、
『ホトトギス』の4月号に載っていたというわけである。
その後、二人は、のんびりと時を過ごしてから、虚子のとまる萬屋へ行った。
そこで、夕食、風呂、その後、都踊を観ている。
そして、一力へゆき、舞妓と遊んで雑魚寝したのである。
漱石が雑魚寝、というのは、なかなか愉快。
三度目の京都訪問は、ふれられていない感じ。
ネットなどによれば、1909年(明治42年)10月ころ、二日くらい、という。
ただネット情報なので「屑」である可能性あり。
四度目は、1915年(大正4年)3月下旬から4月中旬までで、
津田青楓が静養に来るように誘ったからである。
このとき磯田多佳と親しくなっている
谷崎潤一郎の遊洛は、漱石の第三回目と第四回目上洛の間となる。
たぶん以上のことは知る人には常識と思われるが。
Posted by 愚華 at 16:15│Comments(0)
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