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2011年09月18日

谷崎潤一郎の定宿

最近の『京都新聞』によると、「京都市東山区八坂鳥居前下ルの旅館「ぎおん森庄」」は、
谷崎潤一郎がかつて定宿として居たところという。
旧名は、「喜志元」だったようだが、2010年に「経営者が替わり」「宿」も「改修」されたようだ。

いつごろの定宿か、というのが愚かにも疑問。


通説では、谷崎の一回目の京都訪問は、1912年。
第二回目は、1921年。
第三回目は、1923年春。(谷崎自身は、22年とするが記憶違いとする説が有力)
第四回目は、短期の定住となる。1923年9月27日から、12月まで。約三カ月。
12月中に阪神間へ移る。1946年5月までは、基本的に阪神間に住居をもつ。
つまり四回目の京都訪問以降は、第何回と数えることは出来なくなった。
日記などでも出てこない限り回数の特定はできない。

1944年9月、「喜志元」を利用。(ネット上の小谷野敦による「谷崎潤一郎・詳細年譜」を参照)
敗戦後初の京都行きは、1945年10月。この時は「喜志元」に宿泊。(同上)
1946年3月16日から4月27日までは、京都の「喜志元」を宿としていたようだ。(同上)

1946年の5月からは京都に定住。1956年半ばまで。
1956年暮れに下鴨の家を売却。以降は上洛の時は千萬子宅に泊まる。つまりここからまた京都訪問という概念が登場する。
1965年7月30日死亡。



定宿と出来そうなのは、1924年あたりから、1946年夏前まで、となろうか。
44年、45年、46年の利用は確認できるようなので、
いつごろから「定宿」化したのか、面白い問題。



<蛇足>
「ぎおん森庄」は、この「定宿」を売りにしていくのだろう。
その手始めが、京都造形大教授などとのコラボ。


タグ :谷崎潤一郎

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Posted by 愚華 at 15:14│Comments(0)愚見
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