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2011年09月13日

谷崎潤一郎の宿

ほぼ5年前、『朝日新聞』に、谷崎潤一郎の書簡の発見と展示の記事が出た。
谷崎の初の京都訪問に関連する書簡であったので興味を持った。
しかし、あまり周辺を見ていなかった。

ということでちょっと見てみると…。


まず『朝日新聞』の記事で重要そうなところを抜いておくとこうなる。

「書簡は8月5日付で東京から京都の旅館「八千代」に出されたもの。当時、谷崎は文壇に出て3年の新人作家で、東京日日新聞に見聞記を書くため八千代に滞在していた。大阪・住吉に出かけた際に人力車から落ち、具合がよくならずに予定を切り上げて直接東京に戻った。
和紙に「停車場附近(ふきん)尓(に)て人力車よりマッサカサマ尓叩(たた)き落とされ脳をひどく打ちて汽車はおろか歩くことかなわず(中略)何しろ旅先の事とて心細さ限りなく」などと無断帰京の顛末(てんまつ)を細かに記している。」(2006年7月初め)

同じ頃の『読売新聞』には、少し別の情報が載っていた。重要部分を抜いておく。

「書簡は京都の木屋町仏光寺にあった旅館「八千代」あてで、大正元年8月5日の消印がある。…(略)…谷崎は、大阪・住吉を見物に行った時に人力車から落ちて頭を打ち、旅館に断らずに東京へ引き揚げた。書簡では旅館にこの事情を説明し、不在中に着いた手紙や小包の処置を頼んでいる。
縦18センチ、横237センチの横長の和紙に毛筆で書かれ、封筒は黄ばんでいるものの、中の保存状態はきわめて良い。書簡を調べた同館副館長のたつみ都志・武庫川女子大教授は、「筆跡や、当時の谷崎の拠点だった東京・京橋の旅館『真鶴館』から出されたことからみて、直筆に違いない」としている。」(2006年6月末)


これで「八千代」が木屋町仏光寺にあったことが分かる。
ほかの資料を見ると、「東木屋町松原上ル」にも「八千代」があった。
おそらく同じもの。
旅館とされてきたが、「貸座敷」「席貸」のようだ。「旅館」も兼業なのだろう。
とすると、仏光寺より南で松原より北。
対岸が見えていたので、加茂川の西岸に面しているはず。
これでおよその地域が特定できた。

谷崎潤一郎の宿

「京都市街全図」1913より


*「京電」の二つの駅の間、線路より右、ということか。


タグ :谷崎潤一郎

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Posted by 愚華 at 16:14│Comments(0)探消
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