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2011年01月04日

昭和文学、高見、谷崎。

高見順の『昭和文学盛衰史 上』は、花袋秋声祝賀会から始まっている。
1920年11月23日開催。
高見は、この会を、大正期の日本の小説家、作家が、ほぼもれなく集合した会合と捉えている。
その作家や小説家たちは、「大正文学」の担い手、ということであろう。
あるいはプレ昭和文学の担い手だ。
高見は、プレ昭和文学にあるものが加わることで、
昭和文学というもの、またその難しさがたちあらわれたという。
何が加わったのか。「思想」である。「社会思想」である。
より具体的には社会主義、マルクス主義だ。

さて、となると、谷崎潤一郎は、もちろん「昭和文学」に入らない。
そのためか『昭和文学盛衰史 上』に谷崎潤一郎はほとんど登場しない。
花袋秋声祝賀会の記念小説集には、谷崎潤一郎は寄稿している。そのことがまず触れられている。
その後谷崎は長くフェードアウト。
次に登場するのは、築地小劇場の芸術派の分派劇団「新東京」の上演戯曲の作者として。
1930年10月に「新東京」は、谷崎潤一郎作「恐怖時代」を演じた、という。
そして、またフェードアウトし、谷崎が前面に出てくるのは、この上巻の最後の最後である。
1933年、この年谷崎は「春琴抄」を発表。
高見による表現ではこうなる。

「昭和八年という年は興味ある年と思うのである。谷崎潤一郎が名作『春琴抄』を発表したのも昭和八年のことである。昭和六年に『盲目物語』を書き、七年に『蘆刈』を書き、そして八年にこの『春琴抄』を書いたのだが、この『春琴抄』はそうして昇りつめたひとつの頂点である。昭和期に入つての谷崎文学の頂点が、この昭和八年に発表されたのである。」

思想系文学、左翼文学の退潮と、これは関連がある、と高見はおそらく考えていた。


さて、谷崎の『痴人の愛』は、1924年3月に連載開始。25年7月に完結。
これは、『昭和文学盛衰史 上』では語られない。
もちろん『卍』も『蓼食う蟲』も『吉野葛』も出てこない。


(高見順:1907年1月30日 - 1965年8月17日、谷崎潤一郎:1886年7月24日 - 1965年7月30日)




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Posted by 愚華 at 23:45│Comments(0)探消
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