2010年11月01日
飲み屋、「夢二」
「夢二」という居酒屋が、京都の浄土寺あたりにあったと記憶している。
白川通りよりも西、もちろん今出川よりも南、吉田山より東であった。
何回利用したかわからない。10回には満たないと思う。
誰の紹介でそうしたところに顔を出せたのかも定かでない。
記憶では、入ると座敷があり、せいぜい20名でいっぱいだったのではないか。
ただあいまいである。
強く記憶に残っているのは、竹久夢二の作品が多数かけられていたということ。
本物であるのか、とか、由来はどうしてか、など、その時は特に気にならなかった。
今思うと、夢二が京都に住んでいた、夢二が京都をたびたび訪れた、ということ、
そのことと関係があったのかもしれないと思う。
しかし、何せ、飲み騒ぐことにしか気が回らなかったので、
確かめるということはしなかった。
最近、「夢二」に触れているある文章にインターネット上で出会った。
藤本建夫が書いた、「京都時代の野田君」というものである。
「野田君」とは、野田敬一のことらしく、2005年に、急逝したとのこと。
二人とも経済史研究者であるらしい。
藤本は野田の友人で、追悼文を書いたのが、この「京都時代の野田君」である。
この中に、「夢二」が出てくる。そこを引用しておこう。
「僕たち(野田や藤本などの仲間である:引用者)は息抜きに時々飲みに行った。
当時は苦しい生活であったから京大周辺の安い居酒屋に決まっていたが、今でも
思い出すのは「夢二」である。「夢二」は大野ゼミの大先輩川本和良立命館教授に
僕が連れて行ってもらって知ったのだが、10人前後入れば満員になるほどで、
竹久夢二の絵と、それにそこの年老いたおかみさんは河上肇のお手伝いさんを
していたことがあるとのことで、それを偲ばせる河上肇の直筆の小さな色紙とが
壁に掛っていた。ここは今時の居酒屋チェーン店のがさつさは無論なく、それでいて
そこでの話題には僕たちを惹きつける賑わいがあった。僕たちも何か熱っぽく
飽きることなくしゃべっていたことは覚えているが、今となっては記憶のかなたに
すべて消え去ってしまった。記憶力に良い君は話題を何か覚えていたかもしれない
けれど、今となっては天国の君に問い合わせるすべもない。あの「夢二」は
今どうなっているだろうか。」
「夢二」のおかみさんが、「河上肇のお手伝いさん」だったこと、
「河上肇の直筆の小さな色紙」がかかっていたことは知らなかった。
忘れ去ったのかもしれない。
「夢二」がいつ閉店になったのかもわからない。
「夢二」では酢ガキを食べた。
おいしかった。
ある時友人と5人ほどで行き、酢ガキを何回も注文した。
翌日牡蠣にあたっていた。
数日後一緒に行った友人たちに聞くと彼らも同じだった。
でも、酢ガキを嫌いになることも「夢二」に行かなくなることもなかった。
おそらくこういう店は、また京都に誕生しているのではあろう。
そういう飲み屋の移り変わりを知りたい、とも、思う。
白川通りよりも西、もちろん今出川よりも南、吉田山より東であった。
何回利用したかわからない。10回には満たないと思う。
誰の紹介でそうしたところに顔を出せたのかも定かでない。
記憶では、入ると座敷があり、せいぜい20名でいっぱいだったのではないか。
ただあいまいである。
強く記憶に残っているのは、竹久夢二の作品が多数かけられていたということ。
本物であるのか、とか、由来はどうしてか、など、その時は特に気にならなかった。
今思うと、夢二が京都に住んでいた、夢二が京都をたびたび訪れた、ということ、
そのことと関係があったのかもしれないと思う。
しかし、何せ、飲み騒ぐことにしか気が回らなかったので、
確かめるということはしなかった。
最近、「夢二」に触れているある文章にインターネット上で出会った。
藤本建夫が書いた、「京都時代の野田君」というものである。
「野田君」とは、野田敬一のことらしく、2005年に、急逝したとのこと。
二人とも経済史研究者であるらしい。
藤本は野田の友人で、追悼文を書いたのが、この「京都時代の野田君」である。
この中に、「夢二」が出てくる。そこを引用しておこう。
「僕たち(野田や藤本などの仲間である:引用者)は息抜きに時々飲みに行った。
当時は苦しい生活であったから京大周辺の安い居酒屋に決まっていたが、今でも
思い出すのは「夢二」である。「夢二」は大野ゼミの大先輩川本和良立命館教授に
僕が連れて行ってもらって知ったのだが、10人前後入れば満員になるほどで、
竹久夢二の絵と、それにそこの年老いたおかみさんは河上肇のお手伝いさんを
していたことがあるとのことで、それを偲ばせる河上肇の直筆の小さな色紙とが
壁に掛っていた。ここは今時の居酒屋チェーン店のがさつさは無論なく、それでいて
そこでの話題には僕たちを惹きつける賑わいがあった。僕たちも何か熱っぽく
飽きることなくしゃべっていたことは覚えているが、今となっては記憶のかなたに
すべて消え去ってしまった。記憶力に良い君は話題を何か覚えていたかもしれない
けれど、今となっては天国の君に問い合わせるすべもない。あの「夢二」は
今どうなっているだろうか。」
「夢二」のおかみさんが、「河上肇のお手伝いさん」だったこと、
「河上肇の直筆の小さな色紙」がかかっていたことは知らなかった。
忘れ去ったのかもしれない。
「夢二」がいつ閉店になったのかもわからない。
「夢二」では酢ガキを食べた。
おいしかった。
ある時友人と5人ほどで行き、酢ガキを何回も注文した。
翌日牡蠣にあたっていた。
数日後一緒に行った友人たちに聞くと彼らも同じだった。
でも、酢ガキを嫌いになることも「夢二」に行かなくなることもなかった。
おそらくこういう店は、また京都に誕生しているのではあろう。
そういう飲み屋の移り変わりを知りたい、とも、思う。
Posted by 愚華 at 15:01│Comments(0)
│温故